>>>大夕張掲示板へ(書き込みはこちらです)   

2002年    
大夕張掲示板Index題名一覧へ/ 5月 6月

平成14年 6月 先頭にもどる


(1960) 42年の歳月 投稿者:片山和夫(旧姓藤原、後村)  投稿日:06月30日(日)15時31分47秒

飯田さん、奥山さん、6月23日南大夕張の客車整備の現場でお会い出来き
又整備をされていた方々と、短い時間でありましたが、一生懸命に整備されて
いる姿を拝見し本当に感激しました。

6月22日札幌での鹿島中学校11期同期会(還暦)に参加し恩師比志、江頭
遠藤先生と再会、特に比志、江頭先生とは45年振りでした。
同期の中にも中学校卒業以来の方も多数おり、薄れ行く過去の記憶を思い起こし
ては昔の大夕張の話に夜の耽るのも忘れました。

6月23日はあいにくの雨模様の天気でしたが、旧友長谷川詔寛に無理を言って
彼の車で大夕張へ、竹馬の友前田一三君(タイ在住)、沖本ヨシ子さん
(旧姓大久保)と一緒に鹿島小学校の校庭に立ちました。
夕張岳を見ることは出来ませんでしたが、記念碑の前でしばし皆、言葉を発する
ことも無く、現実の大夕張を直視するだけでした。

大夕張駅前跡から下って藤木精米所跡(藤木千昭君と同期、今回参加、埼玉在住)
を右に、住んでいた春日町まで行き、引き返しては炭鉱病院、武徳殿跡等々そして
千才町から東小学校の橋を渡り鹿島中学校跡へと足を伸ばしましたが雑草と生い茂っ
た木々に行く手を阻まれ断念、橋の上から通いなれたつり橋の橋桁を写真に収め
後髪を引かれる思いで帰路に着きました。

帰り道、清水沢駅前の食堂、長寿庵さんで食事をしましたが、ここのご主人が
夕張南校の2年後輩で私の事を覚えてくれました。(料理が美味しかった)

今回、飯田さん、奥山さんにお会いして飯田さんが長谷川君の甥子さんであり
又奥山さんと前田君が昔同じ職場の同僚であったという事で運命的な出会いと
思っております。

まだまだ書きたいことが山ほどありますが今日はこれにて失礼します。
どうぞ又逢える日を楽しみに福岡でこのHPを拝見させていただきます。
皆様のご健勝を祈念します。

追伸 このHPに登場する泊川さんのお姉さんも同期で今回の同期会に参加。
   旧交を温めました。大夕張万歳!

(1959) 鈴木美保子様 投稿者:小野美音子  投稿日:06月28日(金)22時51分03秒

美保子さん、初めまして!(でも40年ぶりですね^^)
飯田さんのおかげで再会ができ、感謝しています。
妹さんの早苗さんからチャットで、昔うちに来て下さったことがあると
聞いた時は本当に驚きました。

母は美保子さんのことを「可愛く利発そうなお嬢さんで、お姉さんらしく
落ち着いてしっかりしていた」と気憶しており
末っ子の私とは随分違っていたそうです。
父の代わりは美保子さんのおっしゃるとおり直記が一度したと思います。
父の本当の教科は音楽ではなく、そのころの兄は中学生で、私としては、
どんなことをしていたのかと思うと、冷や汗が出そうです^^

学級写真があるそうですが、何かの機会に拝見させていただけると
ありがたいです。父は元気でしたが脳溢血ですぐに逝ってしまい、
その後の母の、「私もあっけなく逝くかもしれないので親孝行するように」
という言葉を真に受け取り、すぐ上の兄夫婦などは、年に4,5回も旅行に
連れて行ったりしていますが、以来20数年母の元気の良さに圧倒され、
子供達のほうがくたびれ気味です。(笑)多分父が守っているのでしょう。
美保子さん、父へのお悔やみありがとうございました。

息子さんも、草野さんの妹さんも群馬にいらっしゃるというこで
私のほうは色々落ち着きましたので、お会いできると嬉しいです。
群馬にお越しの時はお知らせくださいね。>草野様、そして皆様も!

(1958) 同級生へ・・・・・ 投稿者:鈴木美保子  投稿日:06月27日(木)23時55分37秒

ゆうちゃん、いよいよですね。
こちらでも計画を練っているところです。楽しい旅になりそうですよ。
何かと準備で大変でしょうが、よろしくお願いします。

そして美音子さん、はじめましてかな?
丸山先生のお嬢さんなんですね・・・学級写真を見てみると、先生の左側に
私が写っています。そして、ご自宅でのピアノ教室にも妹と通っていました
ほんの短期間でしたが・・・
ある時先生の都合が悪く、その代わりに大きなお兄さんに教えていただいた
事がありました。もしかして、丸山直紀さん?
娘さんがいらしたことは、残念ながら記憶にありません。ましてや同級生
だったなんて、できの悪い生徒でしたので、周りのことが目に入らなかった
のでしょうか・・・でも微かに「ミネコちゃん」という響きに懐かしさを
覚えます。
住民登録の書き込みで、お父様が58歳で亡くなられた事を知りました。
あのしなやかで長い指先が思い出されます。
遅ればせながら、お悔やみ申し上げます。

現在、群馬県にお住まいとか。家の長男も学生ですが、桐生で一人暮らしを
しております。何かとても心強い気がします。
思いがけず同級生、そして恩師にめぐり合えて嬉しいです。改めて、飯田君
ありがとう!!!

(1957) まるで夢のようです・・・ 投稿者:小野美音子  投稿日:06月27日(木)20時49分18秒

★ゆう★さん

>私達はいつまでも「同級生」です!
と言って下さったゆうさんの言葉にぐっときてしまいました(感涙)

モッコと書かれてあったのは元山さんのことなのかな?
憶えてますよ。
ドッヂボールが上手でした。肩がしっかりしていてボール投げをすると
1番遠くへ飛ばしていました。運動が上手でした。
笑顔も多くしっかりしていて信頼感があり、元山さんの話すことに
皆がうなずいていたように思います。
髪はおかっぱにしていて、声にツヤがあり、
落ち着いていて存在感があったように思います。

実は昨日の書き込みの後、飯田さんから94年の同窓会の写真を
送っていただき、総勢100人もの「同級生」を見て、驚きました。
盛大な同窓会が開かれていたのですね。

今年も楽しい会になることをお祈りしています!
写真や色々なお話楽しみに待っています☆
皆さんにヨロシク!

(1956) 記憶力良いねぇ〜! 投稿者:★ゆう★  投稿日:06月27日(木)17時20分00秒

美音子さん、こんにちわ。
とても記憶力が良くてびっくり!!
その通りです。育ちゃんも、沼倉ヨーも。
私は、東小学校でしたので、彼女達とは中・高校生時代に知り合いになりました。
沼倉ヨーは今函館に住んでいます。今でも細くて小麦色の肌?をしてますよ。
先日幹事会がありこのHPの話が出て、美音子さんの話をしたところ、元山祐子
さんが「憶えている」って言ってました。

何だかお互いに知らないのに、グット身近に感じます。
小学校の時引っ越して、遠くに離れてしまったけど、私達はいつまでも「同級生」
です!

  これからもよろしくお願いします。

同窓会で沢山の友人に逢うので、写真など送りますね。

  ♪楽しみに待っててネ♪

(1955) もしかして・・・? 投稿者:小野美音子  投稿日:06月26日(水)23時24分13秒

★ゆう★さん、こんばんは〜!
5月23日のゆうさんの書き込みで、「育ちゃん」と「沼倉ヨーちゃん」の
お名前がでていましたが、小学校低学年当時の2人の少女の
面影が浮かんでいます。ゆうさんのお友達の方と一致すると
とても嬉しく、またそうであって欲しいと願っています。

「育ちゃん」・・たしか緑町に住んでいて弟さんがいました。
髪の先が柔らかく巻いて軽く天然パーマがかかっていたような・・。
目はクリッとして、細面ではなく、親しみやすい感じでした。
頬に赤みがさしていました。唇は厚くなかったと思います。
2回位、育ちゃんの家に行きお母さんにも歓迎していただきました。
その後、クラスが変わり、それっきりになってしまいました。
三上さんでしょうか?

「沼倉さん」細面で小麦色の肌でした。髪はストレートで
きれいなサラサラヘアーでした。肩より少し長めにしていました。
足が速くスラリとしていました。

もしそうなら、是非どうぞよろしくお伝え下さいね☆

(1954) ♪いよいよだヨ〜! 投稿者:★ゆう★  投稿日:06月25日(火)09時23分17秒

鹿島中学校24期生 第2回同窓会!
  平成14年8月24日(土)札幌東急ホテルで行います。
これから皆さんの所にご案内が届くと思います。
楽しいアトラクションも用意して、皆様をお待ちしております。
是非!ご出席くださぁ〜い。

(1953) 客車の整備進んでいます。 投稿者:石垣@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:06月24日(月)10時38分00秒

飯田さん、昨日はご苦労様でした。
大夕張の皆さん、こんにちは。
三菱大夕張鉄道保存会の石垣です。

6月23日の活動時の写真を保存会のHPへアップしました。
客車の座席がきれいになった様子を、大夕張の皆様にも、ご覧いただきたく
お知らせにまいりました。
三菱大夕張鉄道保存会のホームページから「6月23日の作業」でご覧いただけます。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5963/index.html


(1952) 同級生の訃報・・ 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:06月22日(土)17時39分01秒

この掲示板をお借りし同級生の訃報に関するお知らせをさせて頂きます。
WEBマスターの飯田さん大変申し訳ありませんがどうか御許し下さい。
大西留美子さんさんが札幌市内で病気入院中でしたが
6月14日に残念ながら逝去されたとの情報が
御身内方からお話が寄せられました。

鹿島中学校21期生、最終学年時は3年B組 
担任は「曽我雅彦」先生のクラスとなっています。

この件に付いてのお問い合わせは私までお願い致します。
メールアドレスは下記参照下さい 

三浦 幸広
ii8y-mur@asahi-net.or.jp

(1951) ●『北菱鹿島炭鉱と北夕鉱業所の歴史を学ぶ会』 投稿者:奥山道紀@シューパロ塾  投稿日:06月20日(木)23時52分17秒

シューパロ塾では下記の通り南部地区で操業した北菱・北夕炭鉱の学習会を開催
します。

             記

1.日 時:平成14年6月30日(日) 午前10時 
  
2.集合場所:市南部連絡所 (南部東町) 
  
3.予 定:・ 午前 北夕・北菱炭鉱跡探訪(南部北夕町)
      ・ 午後 北夕・北菱の想い出を語る会(南部コミセン)
※雨天時は変更しますが、定刻までに集合場所にお集まり下さい。 
  
4.持参するもの 帽子・軍手・雨具・長靴・昼食・飲物 
  
5.問い合わせ先:事務局 伊藤勲(Tel 01235−5-5011) 

(1950) 作業日のお知らせ 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会  投稿日:06月20日(木)21時56分53秒

毎度、お騒がせします(^_^;)
6月23日(日)は今年度3回目の定例活動日とし、下記の通り保存車両の修復
作業を行います。予定では
・スハニの天井のコーキングの残り
・スハニの山側の外板の補修と色塗り
・補修ボランティアの方が多ければ、セキの側面・妻面の塗装
・おなじみの草刈
”万が一”雨が降った場合 
・ 座席のニス塗り
・ その他

         記
日 時:平成14年6月23日 午前10時〜
場 所:夕張市南部東町 旧南大夕張駅跡地
服 装:汚れても良い服装で(一応、傷害保険付保、怪我と弁当は自分持ち?)
持ち物:軍手・かなづち・昼弁当
    尚、夕張市南部にはコンビにはありませんので
    昼弁当、ビール(晴天時)、酒(雨天時)、
    肴、彼女等の調達は清水沢までに行ってください。
その他:例によって冷やかし大歓迎!また、差し入れも一切拒みません。

(1949) 夕張岳 投稿者:谷口浩章  投稿日:06月19日(水)07時46分48秒

飯田さん おはようございます 

画像採用ありがとうございます。

>軽快に登っていかれたのでしょうね。
軽快な「フリ」をして登っていきました。(^^;

また、大夕張&夕張岳関係で画像ゲットしましたら送ります

http://www1.odn.ne.jp/~karelia/rife/index_r.html


(1948) 夕張岳山頂 6月15日(日) 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月18日(火)22時27分38秒

三菱大夕張鉄道保存会の作業班長,谷口浩章さんから,夕張岳の山頂の
写真を送っていただきました。
いつものようにスリムな身のこなしで,軽快に登っていかれたのでしょうね。
うらやまし〜。明日は憂鬱な健康診断だぁ・・・

・・・そんなことはともかく清々しい最新の夕張岳山頂をどうぞ。↓

http://ooyubari.cool.ne.jp/furusato/santyo.htm


(1947) また情報を 投稿者:本間 孝  投稿日:06月18日(火)20時41分21秒

「おもいっきりテレビ」「日本の山」情報ありがとうございました。映像、本
ともに観ることができました。また、何かありましたなら発信してください。

(1946) ご存じでしょうが。 投稿者:丸山直記  投稿日:06月17日(月)09時22分13秒

週刊「続 日本の山100」(というタイトルだと思いますが)の夕張岳の
号が発売になりました。
書店へどうぞ。

(1945) 「おもいっきりテレビ」に夕張を描いた画家・故畠山さんが登場 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月16日(日)22時59分54秒

残念ながらお祭りは今日でおしまいですが(^_^;)、今週火曜日(18日)12時
45分より日本テレビ系列(北海道ではSTV)みのもんたの「おもいっきりテ
レビ」の「きょうは何の日」のコーナで「炭鉱を描いた画家・畠山哲雄が亡くな
った日」のタイトルで道展・一水会会員で夕張を描き続けた画家、畠山哲雄氏が
取り上げられます。
制作会社では6月8〜9日の二日間に渡り生前、畠山氏が描きつづけた市内各所
を撮影、1987年の鉄道廃止時の「記念絵はがき」にも描かれた車両が保存さ
れている南大夕張駅構内も9日に撮影されています。
編集で番組内での扱いは不明ですが、興味がおありでしたらチェックして下さい。

(1944) 大夕張線路沿いの出店 投稿者:海好  投稿日:06月16日(日)14時07分19秒

出店で父に買ってもらった指輪とブローチは今でも宝石箱に入れて大切にしまってあります。
お面やカラーひよこも買ってもらいました。
家族みんな浴衣を着て撮った写真があります。(わたしたちこどもは、ひよこを抱いて・・・)
浴衣にひよこ・・・って、8月のお祭りのようです。
そうそう、6月のお祭りは(わたしは明石町)
着物を着せてもらって(着物って装飾品がやたら多くて苦手だった)
鼻に白く塗ってもらって首に豆絞りを結んでロープを?みながら?
ぞろぞろと町を歩いた記憶があります。
アルバムの写真を何度も見ていたので多少の記憶は残っていました。
出店は、6月も8月も大夕張の線路沿いに出ていたんでしょうね。
すごい賑やかさでしたよね。
小学校低学年だったわたしは、迷子にならないように父にへばりついて
歩いていたと思います。
それと、明石町の盆踊りのおわりのお楽しみ。
わたしの記憶違いでなければ、ご褒美はキャラメルでした。

(1943) 祭りは14、15、16 投稿者:ziny  投稿日:06月16日(日)01時52分52秒

15,16,17と私の人生暗かった・・という歌詞もありましたが・
っていうか好きでよく歌ってたよ。圭子ちゃんだよね。今は娘が元気だけど。?
でも、斉藤さんのお話をみて、「やばっ」おいらは、もう、時に流されつつあ
るな・・と、感じました。道内にいればそれなりに感じるんだろうけど、山祭りは
6月14、15、16日でした。朝の5時くらいに起こされて、詰所にいって
、(私は代々木町でしたが)鼻の頭にお化粧してもらい賽銭箱を担ぎました。
8月のお盆も14、15、16でした。この時間帯はズーッと仕事は休みで祭り
だ祭りだ、と思っていたんだけど、でも、今回斉藤さんに言われるまで、山神社の
6月のお祭りを忘れていました。そうだよね、あの線路沿いの出店のにぎやかさ。
あれが大夕張だよね。鹿島の思い出だよね。たくさんの出店があった。
そして、炭坑節と北海盆歌を2重、3重でやぐら太鼓の響きで踊った、
あれが8月の14、15、16でした。踊りがおわる夕暮れころは、浴衣すがたにも、
若い僕たちにもなんとなく汗のかいた後の、背中が涼しい気持ちでした。
親戚の家を行き来して楽しく過ごした昭和の30年代でした。

(1942) 清水沢の橋 投稿者:s-matu  投稿日:06月15日(土)23時55分05秒

飯田様、奥山様 ありがとうございます。
あれは架け替えの仮設橋だったわけですね。
多分、橋を歩いて渡りきった時に振り返ったのでしょう。風呂敷をしょった
おばさん、両手に荷物を持ったおじさん、子どもの手を引いて渡っているお母さん
・・・みんな一列に並んで歩いている光景が妙に心の底に残っておりました。

お祭りと言えば、小生は栄町だったのですが、神輿担ぎの前日に詰所で法被を借り
当日は合図である花火を聞く為、早起きしたものです。
早くから近所の友達と詰め所前に集まり、わいわい・がやがや、しておりました。
なかでもさい銭箱が一番人気ではなかったでしょうか・・・
あと、団扇なども人気があったと思います。
担ぎ終わったあと頂いた定番のおむすび(白米ごま塩×2、紅しょうが付き)
も楽しみの一つでした。
確か、豆絞り(日本手ぬぐい)とお駄賃(小生の時代は¥500−)も頂いた
かな?
楽しかった子ども時代の思い出を呼び起こしてくれた、本HPに感謝致します。
飯田様ありがとうございます。

(1941) 清水橋架替工事 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月15日(土)22時28分23秒

飯田様、皆様こんばんは。
さて、清水沢の街を出て国鉄夕張線を若水跨線橋で渡る手前に清水橋があります。
昭和44年に架け替え工事が行われていますが、その際に橋の手前から仮設の踏
切を渡り、対岸(当時総合グランドがありました)に仮橋で渡っていました。期
間は半年もなかったと思いますが、確かにバスから降ろされて徒歩で連絡した記
憶があります。ちなみに鋼橋へ架け替えられる前の遠幌橋なども、一旦バスを降
り徒歩で連絡したそうです(昭和33年に鋼橋化)。

(1940) 橋を渡った話 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月15日(土)13時49分03秒

s-matuさんの書き込みを読んで,忘れていた記憶の中にそのようなことが
あったことを思い出しました。場所や詳しいことは覚えていないのですが,
橋が危険だということで,バスは渡れず,徒歩で歩いて渡りバスを乗り換えて
いったということがあったように思いました。
・・・・で,後で,母親に聞くと,「そんなことあったっけ?」という反応
です。いったい・・・。他の方もどなたかご存知ありませんか。


札幌は北海道神宮のお祭りで,週末と重なり,人出もたくさんでているので
しょうか。斎藤さんの掛け声に誘われて,お祭りの写真アップしていきます。
お祭りの話題もよろしくお願いします。

(1939) 「ゴールデン☆ベスト」 投稿者:海好  投稿日:06月14日(金)10時25分29秒

2002/06/19
ザ・リリーズ「ゴールデン☆ベスト」
東芝EMI \1,900.発売するんですって〜
これ聴いて、高校時代を思い出そう・・・

(1938) 今日からお祭りだい 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:06月14日(金)07時16分42秒

わ〜い,わ〜い。今日からお祭りだ。
昭夫誘って,美代子に声かけて,それで堀田先生とこにも寄って,皆で鹿島小学校とこの出店
に行くんだ。

父さんと,母さんからもらった百円玉持って,何買おうかなあ。
スマートボールやって,おでん食べるんだ。そうだ,最中のくじもいいなあ。だけど,全部スカ
ならどうしよう。本間商店のおじさん,今年もおまけしてくれるかなあ。
でも,岳富町の田村商店で,プラモデルも買いたいなあ。だけど,あと150円足りないんだ。
ようし,プラモデルは正月まで我慢しよっと。

そうだ,父さん言ってたけど,明日は家族皆で,池田屋でラーメン食べるんだ。
母さんも「てちゃん寿司なら無理だけど,池田屋のラーメンなら,なんも大丈夫だべさ」って。
池田屋へ行ったら,パンジュウも食べたいなあ。

学校も休みだし,父さんも坑内休みだし,本当に楽しみだべさ。
あっ,太鼓の音が聞こえてきた。お御輿見に,詰所とこへ行かなくちゃ。
わ〜い,わ〜い。今日から,大夕張神社のお祭りだ。

(1937) 清水沢の橋 投稿者:s-matu  投稿日:06月14日(金)00時40分04秒

昭和43年か44年頃と記憶しております。(小生はまだ児童になる前)
おぼろげな記憶ですが、父に連れられ大夕張から夕鉄バス(青バス)に乗っ
て若菜経由でニシキザワ公園に行く途中?、清水沢の火葬場あたり?でバス
の乗客がすべて下ろされ、橋を歩いて渡った記憶が有ります。
こんなこと誰か記憶に有りませんか?

(1936) (無題) 投稿者:泊川 俊徳  投稿日:06月13日(木)13時50分25秒

奥山さん 栗山炭鉱の答え 有難う御座いました 大夕張に住んでいた当時
栗山炭鉱の事は知らず 大夕張近郊には 炭鉱も多く ここ数年 あの道を
通ると栗山炭鉱の看板が目に付き先日 大夕張に行く前に途中まで行った
のですが 鎖で通行禁止なので奥までは行きませんでした 近所の農家の
方に聞いたら 昭和45年閉山 少し当時の名残の建物も残っているそうです
最近 万字炭山にも行くのですが ズリ山と たぶんズリ山のベルトコンベヤ
の基礎コンクリート土台らしき物が残り炭鉱跡は立ち入り禁止に成ってる
ようでした 何処の炭鉱も閉山すると 雑草に埋もれてしまうのですね

18日 みの もんた 思いきりテレビ見る積もりです

又 ラッセル車で逢う事と思います シュ−パロ塾に 中々 協力も出来ません
が 今後も頑張ってくらさい
情報有難う御座いました

(1935) 待っているよ〜 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:06月13日(木)12時39分16秒

machさん,掲示板デビューおめでとうございます。

交流会には,第1回目から参加させて頂いていますが,幼児から老齢者まで,色んな年齢の方
が参加しています。もちろん,20代の方もいますよ。
それぞれが,初対面でも同じ空間を共有していたというだけで,とても懐かしいのです。

何にもなくなってしまった大夕張ですが,心の中にある大夕張を語り合うだけで,どんどん
街が生き返ってくるのです。
machさんの大夕張も,交流会でよみがえらせてみませんか。お待ちしております。

*今までの交流会の様子は,トップページ「交流会」を覗いてみてください。

(1934) (無題) 投稿者:mach  投稿日:06月12日(水)11時59分15秒

はじめて投稿します。
6月9日(日)昼頃、大夕張へ行ってきました。
写真も撮ろうとカメラを持っていったのですが、あいにくの天気。
小学校のグラウンドへ着いた頃にはどしゃ降りの雨で
車から降りることすら出来ませんでした。
かすかに残されたかつての道路などを頼りに自分の住んでいた場所や、
よく遊んでいた場所を探し、懐かしい暖かい気持ちと寂しさの入り混じった
複雑な思いでいっぱいになりました。

私は現在、三十路の一歩手前。
この掲示板によくいらしてる皆さんとは年代が少し違う為、
ここに投稿されている内容もほとんど記憶にないというよりも
知らないと言った方が良いかもしれません。
生まれ育った大好きな街を忘れたくなくて、このHPは良く見ているんですが、
この掲示板を見ていると、閉山後に生まれ寂しくなってゆく街しか知らない者が
ここで共有できる話題がなく戸惑っております。

交流会など、盛んに行われているようですが、私たちくらいの世代の参加は
あるのでしょうか?
もしいらっしゃれば、ぜひ私も参加したいのですが感想などを
聞かせていただきたいと思います。

(1933) 真一様 まだフィリピンです 投稿者:yoshitaka  投稿日:06月11日(火)19時19分08秒

残念ながら、まだまだフィリピンです。
小さい会社ながらも、会社を経営して行くのはなかなか大変で
自分のことはやはり2の次になってしまいますね。
最近は月一度、10日程度の割合で、中国の会社の方も兼務になってしまい
からだが二つ有れば、と感じています。

(1932) 栗山炭鉱 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月10日(月)22時38分22秒

現在、栗山炭鉱の看板の出ている炭鉱は北炭角田炭鉱として昭和2年に開坑、
昭和29年に北炭の企業整理により第二会社となり角田炭鉱叶V二岐礦とな
りました。
夕張鉄道新二岐駅から4.7qの角田炭鉱専用線が出ていて、石炭輸送のSL
の他、従業員輸送のために電車が運行されていた時期もありました。
閉山は昭和45年ですが、現在看板が出ている栗山炭鉱はその残炭の露天掘り
を行っていたものと思います。
炭鉱住宅街は丁度、夕張の旭町の裏側になり、夕張で一杯ひっかけた人が山越
えで行き来することもあったそうです。現在も炭鉱の残骸のずり山が残ってい
ます。

(1931) ビデオ収録 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月10日(月)22時28分31秒

泊川様、昨日は客車ノートにご記帳ありがとうございました。

≫草刈作業一人で頑張ってる人が居ました 数人でビデオの収録してました

保存会事務局長今井でした。彼の話によるとビデオ収録は

・日本テレビ、みのもんたの「思いっきりテレビ」
・火曜日、「今日は何の日」のコーナー
・午後12時47〜8分ごろから1時05分くらいまでです。北海道では
STV放送。    だそうなんですが・・。
なにやら、画家に関係あるらしく恐らく夕張の風土を描き続けた畠山哲夫氏
の命日である来週6月18日に放送されると思います。畠山氏は鉄道廃線時
の記念絵はがきの絵も描いています。

(1930) 今年も、、、、 投稿者:くさの(夫)   投稿日:06月10日(月)21時19分10秒

大変、ごぶさたしています。
仕事が忙しく、ほぼ1ヶ月ぶりにこのHPを
訪ねてみました。昨年の忘年会で、皆さんと
お会いしたのが、とても懐かしく思える今日
この頃です。私達、夫婦は大夕張出身では
ありませんが、お互いの会話の中では、
まるで2人の故郷の様に、よくでてきます。
毎年、夏季休暇を使って大夕張を訪れているので、
今年もぜひと考えているのですが、もしその頃に
イベントを行うのであれば、ぜひ声をかけて
もらえると嬉しいです。
ではでは。

(1929) 拝啓!佳貴君 投稿者:久々湊 眞一  投稿日:06月10日(月)15時27分44秒

じゃーん「yoshitaka=佳貴」と判明!! いつ日本に帰ってきたのかなぁー。
そうそう、君の文章「住めば都、○○での生活」を読みましたよ(ネットサーフィ
ンをしていて、偶然拾ったもの)。「文化」および「民族の性格」の比較論とし
て、面白く読みましたよ。
遠慮しないで掲示板にもどんどん書きこんで下さいね。書込みが少ないと、ゴミと
間違えて飯田さんが消してしまいますよー(笑)。
それから、昭三さんに当掲示板のことを教えてね。むしろ、年表や掲示板などをプ
リントアウトして渡すと良いかも。ここでは、私は佳貴と何度も間違われました
よ。「これまでの投稿を見る」から、遡って読んでみて下さい。
まぁ若い人と間違われるのだから、私は「良いことだ」と思っていますが(笑)。

本書込み、出張先からうまく送れるかなー(汗)。。。

(1928) (無題) 投稿者:泊川 俊徳  投稿日:06月10日(月)10時20分04秒

栗山炭鉱を知る方は居ませんか 昭和45年閉山だそうです 道道6号栗山継立
から 富野 の間に有り栗山炭鉱の小さい看板が有り 炭鉱は私有地で鎖で
立ち入り禁止に成ってます まだ ちょとした建物が有るそうです

(1927) (無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:06月10日(月)10時04分20秒

6月9日 天気予報では朝から雨と言う話も あったのですが 天気が良さそう
でしたので 大夕張へ行ってきました 南大夕張ラッセル社の回りを草刈作業
一人で頑張ってる人が居ました 数人でビデオの収録してました
車内のノートに ちょこっとメモリ 5月5日に写した 桜の花をバックに写した
写真一枚 壁にビヨで貼っときました

大夕張の校庭に行きましたが 誰も居ませんでした バイクや車の音はするのですが 校庭には来ませんね

帰りダム湖畔で 奥山さんがいました 何か打ち合わせが有るとか
万字炭山回りで帰っきました 何枚か写真も写しました

(1926) フジキ さん 投稿者:田中 紀子  投稿日:06月08日(土)11時14分30秒

フジキさんの記憶を読み、もしかしてお父様は「藤木悠紀夫」さんでは。
私と同期です。小さい頃は千年町に住んでおりました。
貴方の言うとうり、おじい様は最初は井出組でした。後に独立して、「藤木組」
を設立され、手広く事業をなさっておりました。
大夕張駅を降りて春日町に下りる坂の手前に「藤木精米所」がありました。
遊びに行ったことが有ります。
とても懐かしいです。お父様は最近の同期会でお会いしておりませんが、
如何お過しでしょうか。工業用アルコール工場とは、当時「三菱メタノール工場」
と言って新進の企業として、同期の成績優秀な方達が採用されました。
そんな記憶がよみがえり、久々の掲示板の投稿です。

(1925) 記憶 誤り 投稿者:フジキ  投稿日:06月08日(土)01時01分06秒

書き込みを妹に見つかり、誤りを指摘されました。
祖父は「井出組」ではなく、「藤木組」だそうです。

(1924) タンク車 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月07日(金)23時42分21秒

三菱大夕張炭鉱ではメタノール工場があったため、その出荷用として石炭列車に
タンク車が連結されていました。下記のタンク車ですが、遠くは本州各地の化学
工場へ製品が発送されていたそうです。

http://home.att.ne.jp/sun/shimpei/124_pfc-special4/pfs192_taki5249.htm


(1923) 二郎君のはっぴょう 投稿者:飯田雅人  投稿日:06月07日(金)21時59分14秒

メタノール工場の話題ですが,手元に郷土読本『わたしたちのゆうばり』(夕張教育研究所)
がありましたので,そこから・・・。大夕張関係の中では大夕張ダムの記事についで大きく
扱われていました。
----------------------------------------------------------------------------------
『二郎君のはっぴょう』
 二郎君は,鹿島のメタノール工場でははたらいているおじさんに,工場を見学させてもらっ
た時のことをはっぴょうしました。
 工場見学にいくとちゅう,おじさんがぼくに,
「おじさんの工場は,坑内のガスをつかって,メタノールをつくる工場だよ。」とおしえて
くれました。
 ぼくは,坑内ガスということばをきいた時に,すぐに,ガスばくはつのことを思いだし,
ガスでもやくにたつのかなあとふしぎに思いました。
「メタノールは,ホルマリンというくすりや,テトロンやビニールをつくるたいせつな原料
なんだ。だから北海道の工場だけではなく,とおく東京や名古屋の工場におくられるのだよ。」
と,おじさんはせつめいしてくれました。
 工場につくまでは,なかで大ぜいの人がはたらいているのだろうとおもっていましたが,工
場の中には,大きなモーターの音がひびいているだけで,ほとんどはたらいている人がいな
かったのでおどろいてしまいました。
 工場のところどころに,メーターがいくつもならんでいるところがあり,2,3人のおじさ
んたちがしんけんな目で,メーターとにらめっこをしていました。おじさんたちは,3こう
たいで一日中,メーターをみはっているということです。
 外へでてみると,工場は川の近くにありました。工場でつかう水は,この川からくみあげて
いるそうです。
「二郎君,坑内ガスからメタノールをつくっている工場は,世界でもめずらしいのだよ。」
といわれ,ふりむくと,ぎん色にぬった工場のたてものが,太陽の光にきらきらと,かがや
いていました。
----------------------------------------------------------------------------------
この本は,弟がつかったもので,昭和44年発行となっています。オレンジ色に炭住の版画
が入った表紙です。私が使っていたのは,灰色っぽくて,小学生の子どもが2人後ろ向きに
たっている絵が描かれていたような気がします。何度も改訂されてきっと今も使われている
のでしょう。

4月に建物が取り壊されたばかりのメタノール工場の跡地に行ってみました。広大なまった
いらな空き地が広がっていました。

http://www.asahi-net.or.jp/~bx5m-iid/oyubari/metanol.htm


(1922) Re.記憶 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月07日(金)19時14分45秒

フジキ様、はじめまして。
イデグミは「井出組」で、今でも南部(南大夕張)で建設業を営んでいます。
また、工業用アルコールはメチルアルコールの事で、構内ガスからアルコールを
合成する工場がシューパロ河畔にありました。

(1921) 炭山祭 投稿者:yoshitaka  投稿日:06月07日(金)10時39分01秒

正一叔父さんの家が私にとって、炭山祭の花火見学ベストスポットでした。
叔父さんの家から、鹿島小学校まではちょうど谷間になっており
障害物が無かったので、臨場感あふれる花火でした。

(1920) 記憶 投稿者:フジキ  投稿日:06月07日(金)01時57分48秒

1968年に大夕張に生まれ、多分、3歳ぐらいの時に埼玉の大宮に引越した
のだと思います。なにぶん、子供の頃なので、記憶が定かでないのです。
父や、お袋の話だと、祖父はイデグミ(漢字が分かりません)にいて炭鉱
で働いていたそうです。親戚の叔母は、手芸店をしていたような気がします。
父は工業用アルコール工場で働いていたようです。
3歳ぐらいの子供でしたが、汽車を反転させるターンテーブルの記憶があります。
大夕張にいた頃、父に連れられて、どこの学校なのか分かりませんが、柔道の
練習についていった記憶があります。

(1919) Re音の記憶 投稿者:小野美音子  投稿日:06月07日(金)00時15分27秒

久々湊さんはじめ皆様こんばんは〜!
寺田さんの鹿島小の踏み切りの写真、本当に懐しかったですね。
久々湊さんのお宅付近の線路脇の小道を通った時の印象は
なぜかいつも暖かい季節。 そうでした、冬は雪であの小道は
通れなかったんですね。(今頃気が付いてます^^)

冬には岳富町商店街のバス通りを通り千年町へ行きました。
もう少し上の学年であれば商店街の様子を楽しみながら歩けたのでしょうが
小学校低学年では、バス停から降りてくるクロメガネのお兄さんが怖く、
心の中で歌のメロディを唱え、チョッと気張って歩きました。

それでも行きはこれから遊びに行く楽しい気分。
帰り道はたっぷり遊んで満足し、雪も深々と降ってきます。
あたりもだんだん薄暗くなる頃、いつも心に浮かぶ歌は
「♪雪が降る街を・・」 でした。
遊び疲れ足取りも少し重くなり、リズムに合ったのでしょうか。
雪の岳富町歩いた時のこの歌は、野口さんの言葉も
お借りすると、「故郷を連想する歌」のひとつになっています。
最後の歌詞の「♪新しき光降る鐘の音〜」には「希望」も感じてました。

大夕張のサイレンは泉町ではフェードアウトしたそうですが
緑ヶ丘では多少の余韻はありましたが、普通だったのでは?(曖昧^^)
一瞬にワープできたら、両方を聞き比べてみたかったと思います。

(1918) 音の記憶 投稿者:久々湊 眞一  投稿日:06月03日(月)12時34分13秒

奥山さんのレスを辿り、鹿島小学校前踏み切りの写真を見ました。いやー、懐かし
い場所ですね。列車が来る方向の奥には、錦町購買会の建物が見えますし、泉町の
坂も判りますね。ここは、数え切れないほど、往復した道です(涙、涙)。。。

写真を見ているうちに、音の記憶が蘇ってきたので、ちょっとだけ書いてみます。
大夕張行きの列車は、我が家を過ぎたあたりで、汽笛を鳴らします。汽笛は、宝の
沢の谷間に反響して、胴鳴りがするような根太い音になりました。
劇的なのは花火(炭山祭?)の炸裂する音でした。ドーン+超低域の深々とした反
響音が身体を震わせ、臨場感満点でしたね(笑)。
一方、大夕張のサイレンは、唐突に始まり唐突に終わり(笑)ますが、泉町では、
谷間に余韻が木霊しつつ響いて、すーっとフェードアウトしましたよ。
緑ヶ丘はどうだったのかしら。

数年前に欧州を旅行した時に、ある教会で、パイプオルガンの曲を聴きました。
地を這うような低域の音の塊が、圧迫感と伴に、身体を震わせます。
何故か、懐かしい感覚でした。

(1917) (無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:06月02日(日)13時03分08秒

今日 天気が良ければ大夕張へ行く積もりでしたが あいにく普段の行いが悪い
せいか 天気が悪い 連休後 日曜日は天気の悪い日が多いようですね なんせ
原付なもので 雨が降られると同にも成りません 途中寄りたい町もあるのです
が 天気が悪くてはね

ふるさと会 シュ−パロ塾 25期の皆さん 活動的に頑張ってますね
最近 イタヤカエデの下で 焼肉を焼く姿は見られなく成りました 以前 ゴチ
に成った焼肉は美味かったですね

(1916) 同級生の浦田さんへお詫び 投稿者:野口  投稿日:06月01日(土)19時12分26秒

メールいただいてリターンするとName Service error for kips.net
はじめからアドレスを入れて送信すると User unknoun となってしまいます。
何度送信してもダメでした。私のバソコンか、繋いでいるプロバイダーがばかな
のか。それとも両方ダメかも。調べるのに少々時間が掛かりますので、ご容赦く
ださい。浦田さんからのメールは入りますが、私のほうからは送る事ができません。
受信は出来ますので、クラス会や忘年会のお話しが有りましたらお知らせ下
さい。久ぶりに級友達と会って見たいです。
4月には1期下の方々とお会いして大夕張訛りに浸りました。
一瞬 今自分は何処にいるのだろうかと混乱してしまいました。
浦田さんとは小学校の時、同じクラスだったような気がします。
中学の時のアルバムは名前が入ってますが、小学校のは名前書いてません。自分
で記入しておけば良かったなと今思いました。

(1915) 鹿島小学校前踏み切り 投稿者:奥山道紀  投稿日:06月01日(土)15時50分14秒

kiyomyさん、はじめまして。
この場所、大夕張駅の手前で丁度、鹿島小学校への踏み切りがあった所で
機関車は汽笛を鳴らしながら通過します。
先に書き込まれていた小野さんや、久々湊さまのお宅もこの付近だったと
思います。

http://tadayusaku.2.hotspace.jp/oyubariN14.html

平成14年 5月 先頭にもどる


(1914) 懐かしい場所です 投稿者:kiyomy  投稿日:05月31日(金)23時52分53秒

こちらには初めて書き込みさせていただきます。
千葉県のkiyomyと申します。昭和46年まで鹿島に住んでいました。当時小学
生でしたが、最近このホームページを知り、皆様のお話や懐かしい写真を拝
見させて頂いて、子供の頃を想い出していました。
先日、こちらにご案内されていた寺田さんのホームページを見ていて驚きま
した。子供の頃のことであまり詳しい記憶は無かったのですが、学校の前で
いつも汽車を見上げていた場所の写真じゃないですか。そうこの場所です。
いつもここで汽笛を鳴らしていました。
記憶が一辺に蘇りました。ひょっとしてあそこに写っている女の子は私じゃ
ないか、なんて考えてしまいました。その他の写真もなんか懐かしいです。
昔の友達に電話してみようかと思います。

(1913) 故郷を連想するうた 投稿者:野口美代子  投稿日:05月31日(金)00時43分29秒

近くに住む人は気軽に、遠くに住む人も距離も時間もなんのそので大夕張へ行く。
25年会の便りを読んで私も思いは大夕張へ。
大夕張を思い出す歌のひとつに「懐かしのバァージニア」というのがあります。
ちょつと昔流行ったのでお若い方達はご存じないかと思いますが。
バァージニアを大夕張に置き換えて。
 1,なつかし わが故郷 小鳥の歌も 野の風も
   やさしくわれにささやく  バァージニア ゆかし春の国
                        (北)
   丘の畑にきびはみのり 連なる白き綿の花
  (山)             (山の雲)
   バァージニア 空の緑も 思いにうかぶ わが故郷

 2,なつかし わが故郷 さびしき沼や 細道の 忘れぬ影は まぶたに
            (シューパロ湖)(山)
   バァージニア 夢よかけりゆく 老いしちちはは はらからの
                (去りし)     (山の友の)
 
   声なき声を胸に聴く バァージニア ついに帰らば 再び去らん日もあらじ
                        (もう2度と心は離れない)

                   かっこ内添え書きは東京都民でした。
ヂンギスカンと聴くと羊を連想します。
明石町の駅を降りて、まーっすぐ行って左側8件目位のところに、唯一1件親戚
の家がありました。そこの家で一匹だけ羊を飼っていました。毛がもこもこで、
おとなしくてかわいい羊でした。その親戚の家へ行って羊と遊ぶのが楽しみでし
た。メエメエと良く鳴く羊でした。さっき餌あげたじゃない。遊んであげたじゃ
ない。うるさいなぁーと子供の頃思っていました。30年以上も経って、ハタと
気がつきました。たった1匹で寂しかったんだ・・と。その後、あの羊は仲間の
いる牧場へ帰されたのか、肉にされたのか、私の記憶には残っていません。

(1912) 同級生の浦田さんへ 投稿者:野口美代子  投稿日:05月30日(木)23時20分11秒

Eメールありがとうございます。届いてます。入っていたの気が付くのが遅く
あわてて、リターンで2度返信しました。ところが、送られていないのが分か
ったのが今、気が付くのが遅かったです。エラーメッセージが変なところにあ
ったもので。その前はアドレスの間違いで拒絶してしまい大変ごめんなさい。
 確かに同級生です。アルバムに一緒に載っています。
 とりあえず、このページを借りて、ごめんなさい。

(1911) 大夕張鉄道GALLERY開設 投稿者:寺田牧夫  投稿日:05月29日(水)16時04分05秒

飯田さん御無沙汰しています。大夕張鉄道保存会会員の寺田牧夫です。
↓で奥山さんにご紹介頂きました弊HPの大夕張鉄道のコーナーですが、
本日、半独立させまして「大夕張鉄道GALLERY」といたしました。
他の北海道の炭鉱鉄道の写真なども充実させて頂きたいと思います。
また今まで書き込みしづらかった掲示板もあらたに独立させましたので
遠慮なく鉄道以外のネタで書き込みをお願いいたします。

大夕張関係のリンク集を作りましたので、リンクさせていただきました。
よろしくお願いいたします。

昔、ドキュメンタリー・カメラマンを目指していたときに、撮りためた
写真です。半数以上を当時出入りしていた出版社に置いていて失ってしま
いましたが、残っていた毎年3、4月に取材したネガからアップしています。
今見ると炭鉱(やま)と言う雰囲気のカットがほとんど無いのが残念です。
従業員さんやお客さんが出てきますのでお知り合いの方が写っているかも
しれません。懐かしくご覧いただけたら幸いです。

直リンクは↓ですが、TOPページから入って頂くとカウンターが進みます。

http://tadayusaku.2.hotspace.jp/oyubariN1.html

http://tadayusaku.2.hotspace.jp/

(1910) 轍楽之路(てつがくのみち) 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月28日(火)21時21分11秒

海好さん、あの程度で参考になったでしょうか。
さて、知人のホームページに三菱大夕張鉄道の写真が大量にアップされました。
撮影時期は南大夕張砿が開かれた昭和45年前後。清水沢から終点・大夕張炭山
までの光景や車内風景、乗客で溢れたホームは今では想像出来ない光景です。

http://tadayusaku.2.hotspace.jp/oyubariN1.html


(1909) 初めて知りました 投稿者:yoshitaka  投稿日:05月28日(火)20時38分29秒

こんなホームページがあるなんて
初めて知りました
なんだか懐かしいですね

(1908) 拝啓 千古のみどり殿 投稿者:大夕張寅次郎  投稿日:05月27日(月)12時40分50秒

今年も「25年会」は盛況だったようで、準会員ながら横浜支部長を自称して
おります私も横浜の地よりお喜び申し上げます。
その賑やかな様子は、結婚30年を記念して訪れていた屈斜路湖畔の宿に飛び
こんで来た、セッチャンからの「ホロ酔い現場レポート」で分かりました。
私も足寄町を走りながら「果てしない〜大空と〜広い大地の〜」と歌いながら、
皆さんが行かれた翌日の20日に大夕張を訪れました。

その日の大夕張は、薄日が射したり雨が落ちてきたりの天候でしたが、イタヤ楓
の樹の下で鹿島小学校校歌を独り歌ったのですが、横で女房が「TVと同じだ!」
と煩いし、あの日のように田中先生のピアノ伴奏も無かったので、感動も出来も
イマイチでした。
何とかTVと同じことをやらせようとの魂胆で、女房が記念碑の裏にあるのを捜
しあてた「思い出ノート」を開いてみたら、ナント前に書いている人がJ子君で
横浜支部の連打(横浜ベイスターズに見習って欲しい)になりました。
小学校のグラウンドのタンポポが綺麗でしたし、よく遊びに行ったスキー場のす
ぐ下の平池君の家の跡には水仙が可憐に咲きほこっていて懐かしかったし、シュ
ーパロ川の上流では鹿にも出会い、水芭蕉も沢山咲いていて大夕張訪問はいい旅
になりました。

25年会の写真が出来たら、今度は「報告会」を開催する予定です。
6月には札幌へ出張の予定がありますので、その折には「なじみ亭」では楽しい
お話を、「みえ」では懐かしい歌をお聞かせ下さい。

(1907) 懐かしき人々との再会 投稿者:佐々木仁志(ziny)  投稿日:05月26日(日)23時49分28秒

25年会の皆様、お世話様でした。
バスご乗車の皆様ご静聴、ご協力ありがとうございまた。さすがに25年会員は
すぐに、青春時代に戻るのもすばやいですね。それが、長生きのコツです。?
これからの余生は?モノより、想い出でで頑張りましょう。
千古のみどりさんのするどいご指摘のとおり、zinyはしばらく力果ててましたが、
やっと、よみがえり、本日はテニス大会で6−6タイブレークで8−6で勝利を
もぎ取るまで回復しました。

昔、メーデーの頃に雪がちらついたこともありましたが、5月中旬の鹿島は、曇
り勝ち・後半小雨交じりの天候でしたが、サッポロビールとジンギスカンはこの
気候に合うんですね。!
トンネルを過ぎた路肩には、泥にまみれた残雪がまだ残っていましたね。
イタヤカエデの木は写真で見てると何か、頼りなさそうですが、素手と素足で確
認したところ、以外にしっかりしてました。思い出の木です。
神社の黄色い旗もなびいていました。が、残念ながら、夕張岳は姿を見せてくれ
ませんでした。来年に期待です。でも、千歳で飛行機が旋回中にまだ少し白っぽ
い岳は見えましたので。
この時期はアイヌネギ、山わさび、北あかり、栗かぼちゃ、ホワイトアスパラな
どの仕入れでもあります。鹿島産のアイヌネギもいただき、ゆでて、てんぷらで
ホワイトアスパラ(生は関東地方ではめったに見ません)は焼いたり(これがこ
くがあって美味しい)最高のおつまみです。
懐かしい人々と、懐かしい味との出会いの日でした。

(1906) ありがとうございます。 投稿者:海好  投稿日:05月26日(日)15時12分02秒

奥山さん、ありがとうございます。
K100のロケの日私は幌南中学校のプールで泳いでいて、
(そうか〜なるほどロケは住之江町だったんですね。)
住之江町の友達が嬉しそうに大野しげひさのサインを持って来てくれたのでした。
サインよりも友達の行為の方が嬉しかったので記憶に残っているのかもしれません。
CMの件は、
かめさんありがとうございます。
かめさんのおっしゃる親戚の千田さんが詳しくご存知なのでしょうが
奥山さんの意見にも一理あるような・・・
私も、もう一度志垣太郎さん本人に もし会う事が出来たら今度こそ
確認してみます。(期待薄?だけれども)

(1905) 『25年会』横浜支部長さま 投稿者:千古のみどり  投稿日:05月25日(土)19時22分09秒

 この度の『ふるさと鹿島25年会』5月18日開催に伴いまして、
『壮行会』まで開いて戴いたそうで感謝申し上げます。
Zinyちゃんは、バスの中で当時の流行歌の覚えている限りを歌って
(私も一緒でしたが…)今頃は力果てていることでしょう、
ありがとうございました、と云うべきでしょうか?御乗車の皆様には
御迷惑をおかけしました、と云うべきでしょうか?
(ちなみに若林先生から、zinyちゃんの話術と博学ぶりに感動しました
とのお便りが届いておりました)
J子さんとは、仕事も家庭も忘れ?しつこく連日遊んでおりました。
いい歳?をして子供に還って遊べる友がいるのは、何にもまして
ありがたいことと再認識しております。
 関東方面、あるいは道外の方は一様に、お喜びいただいていたようです。
30数年振りの方もおられ、大夕張の地を踏みしめたときは感無量のようでした。
 その中で途中で転校された方が、この度、若林先生の喜寿を共にお祝いするために、
はるばる岐阜、福島、神奈川から来られ,その時、このHPのことが話題にのぼり、
知らなかった人もいて、帰ったら、早速見たいととても楽しみにしていました。
Fさん見ていますか?Sさん約束通りの住民登録ありがとうございます。
住宅地図、残念でしたね。
 翌日も大夕張行きのバスの中、昼食のジンギスカンと片時も先生のそばを離れずに、
懐かしい小学校時代の話に花を咲かせ又の再会を堅く誓い合っておりました。
『先生、3年後にお会いしましょう!!』
『私は大丈夫だ、みんなの方こそ体の気をつけて!!』

めでたし、めでたし…

(1904) また、見つけたっス☆ 投稿者:★ゆう★  投稿日:05月25日(土)00時00分38秒

懐かしい人みっけ!
「たばこ」事、京子ちゃん!昨日メールしたけどアドレス変わったのかなぁ?
送信出来なかった。
もし変わってたら連絡下さい。
小野美音子さん、私は鹿島東小だったので覚えてない?
でも、同郷の同級生だから、これからもヨロシクお願いします。

(1903) 「走れ、K100」 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月24日(金)23時01分30秒

昭和48年7月27日の北海道新聞記事です。
「汗だく、テレビロケ」
SLブームはいっこうに衰えをみせていないが25日、夕張市のシューパロ湖岸
でテレビドラマ「走れ、K100」のロケがあり、本物のSLと撮影用のミニS
Lが仲良く線路と道路を走った。ロケシーンは「K100、大爆発!」(夕張の
巻)で、太陽がジリジリと照りつける中、スタッフも見物人も汗だく。公道を使
っての撮影とあって、警察官二人が交通整理。SLブームに乗ったこのドラマは
少年とSLとの物語だが南は鹿児島から北は夕張までSLを求めて日本縦断、
約半年のロングランだそう。≪夕張≫

確かTBS系列(北海道はHBC)での放送だったと思います。少年がSL(水
陸両用車改造)とともにかつて、SLを運転していた老人を訪ねて夕張を訪れる
というストーリーです。実際にはシューパロ湖岸での大夕張鉄道SLとの併走シ
ーンは放映されず、住之江町(遠幌)付近の映像が放映されたと記憶しています。
モデルになったSLは大日本炭鉱(常磐炭田)で活躍した、陸軍鉄道連隊のK2形
機関車です。大夕張は既に閉山交渉も妥結、慌ただしい中での撮影だったようで
す。

ところで、志垣太郎さんは2回も大夕張に来たのでしょうか?
「グリコアーモンドチョコ」と「マウスペット」
どちらか、一方は勘違いなのでしょうか。確信が持てなくなりました。

CMですので、ついでに
昭和47年7月26日、北海道新聞
元劇団「四季」に所属していた松橋登、田村亮、古田まゆみら24人の一行がこの
ほど大夕張を訪れ、大夕張駅を舞台に「コマーシャル映画」の撮影が行われた。大
夕張はいま人気のSLが走っており、夕張岳を背景にできる撮影には好条件のとこ
ろ。これに三菱大夕張鉄道が協力して、3両編成の特別列車を仕立てたが、ファン
がつめかけ、同駅はお祭り以上の混雑だった。大夕張は以前にも高倉健や桑野みゆ
きが訪れており、8月2日にもドリフターズ、沢田研二の一行がロケに来るという
、ちょっとした撮影ブーム。≪夕張≫

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5963/movie.html


(1902) 25年会無事終了 投稿者:田中  投稿日:05月24日(金)13時08分48秒

毎年恒例の25年会は5月18日無事終了致しました。
今年は、70名余りでいつもの年より多少 少なめでしたが、盛会でした。
25年会幹事の方々大変お疲れ様でした。飯田さんのホームページをお借り
しましてお礼申し上げます。ありがとうございました。来年もひとつよろしく
お願い致します。
翌19日は大夕張まで貸切バスで行き、何年かぶりですっかり変わってしまった
大夕張を見て、涙を流していた人もいました。来年はどんな風に変わってしまう
のでしょうか?毎年この目でしっかり確かめたいと思います。
今年行けなかった人達、来年私と一緒に25年会と大夕張へ行きましょう!!

(1901) 25日(土)は夕張市南部に集合! 投稿者:三菱大夕張鉄道保存会事務局@今井  投稿日:05月23日(木)20時46分23秒

 来る5月25日(土)は今年度2回目の定例活動日とし、保存車両の修復作業を
行います。
(保存車両状況)
清水沢方  (ラッセル) (  客   車  )  (石炭貨車) 大夕張方
<モーターカー> <キ>+<スハニ>+<オハ>+<ナハフ>+<セキ>+<セキ>
 
 今回は、晴れれば
・足場組み立て
・スハニ屋根補修
・セキ山側塗装
・スハニ山側塗装
 となりますが、雨の場合は
・スハニ座席等 塗装の下地作り
 となります。
 では、お決まりの・・・

         記
日 時:平成14年5月24日 午前10時〜
場 所:夕張市南部東町 旧南大夕張駅跡地
服 装:汚れても良い服装で
持ち物:軍手・かなづち・昼弁当
    尚、夕張市南部にはコンビにはありませんので
    昼弁当、ビール(晴天時)、酒(雨天時)、
    肴、彼女等の調達は清水沢までに行ってください。
その他:例によって冷やかし大歓迎!でも、寒い日だったら
    暖かい声援にして下さい。
    差し入れも一切拒みません。
                       以上
(関連掲示板 同内容書き込み)

(1900) 本当にうれし〜なぁ♪ 投稿者:★ゆう★  投稿日:05月23日(木)09時31分07秒

いやぁーまいったよ。こんなに夕張の懐かしい友達が身近に感じるなんて!
会社にいても、家に帰っても毎日楽しみにこのページを開いてます。
美保ちゃん、そちらの仲間沢山で来てね。
先月モッコ、美佐、育ちゃんと4人で函館一泊してきたよ。
函館にいる沼倉ヨーと5人で温泉に泊まって、チョー楽しかった。

(1899) 夕張市でお初!? 投稿者:小野美音子  投稿日:05月23日(木)00時10分42秒

奥山さんのお言葉で、また出て参りました。皆様、こんばんはー。

去年、池田さんやヒロさんの投稿(1091、1092番)を、母に見せたところ、
緑ヶ丘に設置された「初モノ」を使用できた、ラッキーな四軒のうちの
一軒だったことを聞きました。

私の両親は最初に緑町の炭住に住み、次に鹿島小体育館裏の通称
「庶民住宅」と呼ばれていた所に移りました。
(線路から岩佐校長先生の間にある住宅です)

私が1才位の頃、さらに奥の緑ヶ丘にブロックの市営住宅が建つことに
なりました。そこには何と水洗トイレが設置されるという前評判でした。
夕張市で初めて水洗トイレのある公営住宅に入居などできるはずが無いと
両親は静観していたようですが、職場で比較的年長、子供も増えたという
ことで、棚からぼた餅のように、入居が決まり、リヤカーで引越しました。

公営住宅初の水洗トイレなので時々夕張から市の職員の方が視察に
見えられ、使い心地や改良して欲しい点などを聞かれたそうです。
昭和33年頃にできた鹿島小や夕張市民会館など大きな公共建築などには
設置されていたようですが、人口の多い夕張を差し置き、大夕張の住宅に
設置された事に、そのころの大夕張の勢いや人口の伸びを感じています。

ところでひよっとしてこの話、大夕張年表に載ったりして・・^^
(正確な年度がわかりません・・・・)
池田さんの御苦労を思うと投稿しずらかったのですが、このトイレには
窓も換気扇もない密閉空間だったので、それなりのことも少しは・・・
(失礼・・)

ゆうさん同期の皆さんにどうぞよろしく!私も同学年ですが
小学校で去ったので記憶が今ひとつで残念です。

(1898)お久しぶりです。ゆうちゃん 投稿者:美保子  投稿日:05月22日(水)23時29分58秒

「ゆうだよ」のひとことで、顔が思い浮かびました。懐かしいです!
同窓会の幹事さんをやってくれるとか・・・・よろしくお願いしますね。
関東周辺にいる仲間たちと団体で参加しようかと相談しています。前回は
欠席でしたから、30年ぶりです。そんなに経っちゃったんですね・・・
楽しみにしています。

(1897)住民登録したなり! 投稿者:★ゆう★  投稿日:05月22日(水)14時53分06秒

かめさん、私も住民登録しました。住民の方々をチラッと見たら、何と・・
美保ちゃん、「ゆうだよ」。びっくりしました。それと、山田盛幸さんて
陸上部ですよね。もしかして、私の姉「章子」知ってます?
飯田さん、私の娘稲積小・中に行ってました。ひょっとしてわかります?
「くるみ」といいます。オデブでした。今はMサイズ。高校3年です。

(1896) 私の記憶より 投稿者:かめ  投稿日:05月21日(火)16時23分40秒

海好さん あなたの記憶は正しいです。何月だったかは憶えていませんが、
冬に志垣太郎さんがマウスペットのコマーシャルロケに来ました。
たしか凍った列車の窓ガラスに息を吹きかけて指で何かを書いたシーンだっ
たと思います。
たまたま、その日は、いつも3両編成の列車が撮影の為4両でした。
私の指定席(たしか、だいたい自分の席があったよう感じでしたね。)は、
最後尾の3両目だったので、あれっ?と思い乗ろうとしたら駅員さんにしか
られました。
宿泊先は生協の前の鹿島旅館だったはず。同級生の千田聖子さん(現姓安田)
の親戚とかでサインを書いてもらいました。
今でもありますよ。ちなみに私は眉毛だけ志垣さんにそっくりです。
列車のことでひとつ思い出しました。やはり同級生で工業へいった小林俊治君は、
大夕張で乗り遅れ千年町まで走って乗り込んだ事がありました。
沢山の人が見ていたので、思い出した人がいるかも。
 それと、伊豆祐子さん、私は住民登録をしてあるので気が向いたらメールして
下さい。(2001/12/15付けです)

(1895) 大夕張にやってきた芸能人 投稿者:海好  投稿日:05月21日(火)12時15分02秒

お口の恋人「マウスペット」のコマーシャルも大夕張ロケって
誰かに聞いたことがあってずーっと思いこんでました。
志垣太郎だったような?
冬ではなっかたので違うところ?
5年ほど前代々木公園の渋谷区のお祭りで
うちの子が二つ上くらいの子とバレーボールを
レシーブするゲームで夢中になって遊んだのですが、
その子は志垣太郎さんのお子さんだったんですよ。
「あ、どうも」程度の挨拶しかしませんでしたが、
今この話題が、と思うと大夕張ロケのこと聞いておけばよっかたですね〜
それに志垣太郎さんは、
私がここ大夕張掲示板に来たきっかけとなった
(ザ・リリーズとジョイントコンサートをした事もある)
懐かしいフォーク歌手と中学の同級生だったんですよ。
話題はいくらでもあったんですが・・・
なんせ心の準備が〜
残念です。
マウスペットのことどなたか知りませんか〜
たしかに駅のホームのロケでした。
でも大夕張ではない???
それと大野しげひささんの『走れK100』は?
友達が私のぶんまでサインをもらって来てくれました。
高視聴率だったはず・・・
どなたか、コメントよろしくお願いします。

(1894) ・・・・・・・感激!! 投稿者:カメ  投稿日:05月21日(火)02時29分09秒

30年ぶりですね。本当に懐かしいですね。私は現在静岡県御殿場市に
住んでいます。札幌を出て20年経ちました。東高の閉校式や鹿島小学校
の閉校式にも出席しましたが、今度北海道へ行けるのはいつかな?機会
があれば是非会いたいですね。

PS.私は前後左右に大きくなりました。

(1893) 『炭鉱町の記憶』 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月20日(月)22時31分54秒

「流浪の民」というHPがあります。その中に『炭鉱町の記憶』と題して
大夕張を取り上げたページがあります。
作者の方は札幌の大学に通っていた時にたまたま大夕張を訪れたのが
きっかけということで,その後何回か大夕張を訪問し,その変わりよう
を目にしてきました。
旅人の視点ながら大夕張に対する共感者の眼差しが感じられます。それ
が,単なる傍観者的な大夕張訪問記とは異なったものにしているよう
です。

ps)伊豆さん,前回のしおりを見せていたくと,なんだかご近所のようですね。

http://homepage3.nifty.com/rurounotami/tankoh.htm


(1892) うわ〜い!懐かしいよ〜!! 投稿者:伊豆 祐子  投稿日:05月20日(月)16時31分44秒

お久しぶりです。カメさんですね。そうです私ですよ。
よかった。ここでメールすればキット良いことがあると思ってましたよ。
いやぁ〜うれしーです。先日初めてこのページのことを知り、ちょっと
冒険してみたのですが、頭の中には同級生のことしか頭になくて・・・
先輩も後輩もいるんですよね。私は札幌ですがカメさんは何処なの?
是非!是非逢いたいですね。
私は結構背が伸びましたよ。(ウシシ)

(1891) 間違えてたらごめんなさい 投稿者:上村 正樹  投稿日:05月20日(月)03時15分42秒

時々拝見しています。 間違えていたらごめんなさい。   
鹿島中24期同窓会幹事の伊豆祐子さんて、もしかしたら体操やってた松田祐子さんですか?

(1890) シューパロ川ミニ例会無事終了 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月19日(日)09時15分12秒

曇りで肌寒い天気でしたが、ムレムレのドライスーツ着用で行うのでちょうど
良いかなーって感じでした。
私は仕事で参加できなかったんですが、様子を見に行くと水量は昨年の3分の1
程度。水は去年はかなり濁っていましたが、今年はもうほんと清流。
シューパロ川の色って少しトルコ石のようなブルーがかっているんですね。
とても気持ちよさそうでした。
参加したメンバーに聞くと
「すっごく良かった。」
そうで、なんだか悔しー!あーあーいきたかったなぁ。
来年もまた行きたいとの声もあがり、シューパロ川例会は恒例行事と
なりそうです。

去年下ったとき森林鉄道の遺構が所々にあって、気になっていたので
クラブの掲示板に「写真とってきてよー」と書き込みしたら
クラブの中でも川を下りながらどんな激流でもいつのまにか写真を
撮っている人が「撮ったから」と言ってくれました。
二枚ほど撮っったそうなので、できるのが楽しみです。

(1889) Re.すみません 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月17日(金)21時19分49秒

お仕事大変ですね。
今度は、ゆっくりと大夕張をレポートして下さい。
その時は夕張岳にも登り、南部の客車も是非見学して下さい。

(1888) すみません 投稿者:ロケットマン  投稿日:05月17日(金)07時46分27秒

申し訳有りません。以前に大夕張のレポ−トを、お約束した者ですが 仕事を無
理矢理、入れられて身動きが取れなくなりました。どうぞ宜しくお願い致します。

(1887) 鹿島中学校24期生同窓会! 投稿者:伊豆 祐子  投稿日:05月16日(木)18時11分46秒

3年B組 松田祐子です。今回幹事をやらせて頂くことになりました。
是非、沢山の友達に逢いたいです。
飯田君とは同期生らしい?(おとなしかった私は覚えてないようです。)

(1886) 関心を持たねば 投稿者:久々湊 眞一  投稿日:05月13日(月)16時43分58秒

高橋さん,市橋さん,ヒロさんの投稿を読んで、「ガッテン」すると伴に、昔の大夕
張を回想してました。頭に浮かんだことを、おまけで書き込みます。

陸の孤島と言われた大夕張は、世間一般に比べて、情報量が少なかったのだろう
か。「あの人がどうした」などの噂話は、結構、豊富かつスピーディに伝播してい
たように思う。裏返せば、大夕張の住人は情報に飢えていて、身近なゴシップに興
じていたのかもしれない。一方、情報に敏感となり「自動的に情報センスが磨かれ
る」環境であったとも思われる。
何故こんな事を書くのかというと、当掲示板の書き込み情報は、質が高いのです。
他掲示板のようなゴミ情報が皆無なのですよ(飯田さんがスクリーニングしてくれ
ている部分もありますが)。理由を考えた結果、上記に思い至ったのですが、一寸
強引かしらん(笑)。

こんな眼で見ると、現代は「情報洪水による感覚麻痺」の兆候が目につきます。
あまりにも情報が多すぎて、何が良いのか?正しいのか?判断をしない。一々気に
留めない、関心を持たない、等。世の中は、「情報不足」の時代から「関心不足」
の時代へと、急激に舵を切ったようです。
例えば、関心を持たれていないのを良い事?に、悪がはびこっていますよね。
品物は製造会社(ブランド)名で選択する人が、多いですよね。
語尾に曖昧言葉(○○のヨウナ。等)のプラスが流行ってますよね。

と書いている私も「かもしれない」「のように思う」の曖昧表現が多いなぁ(汗)

(1885) 鹿島中24期(同窓会) 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月12日(日)22時18分28秒

さっき,鹿島中F組の斉藤君から電話が来て,94年以来の会に向けて
住所を調べたいので,知らないだろうかということだった。
(彼とは3年前,学校の担任と父という関係で本当の偶然で再会した。)
これまで,点として存在していた自分には,なかなか・・・と思って
いたけれど,思い出して見ると,メールのやりとりを通して幾人かの
方の名前も・・・。

そんなわけで,もし昭和45年度鹿島中学卒業の学年で,自分と同級の
方はメールで住所を教えてくだされば,幹事さんの方までお知らせでき
ると思いますので,ぜひご連絡を。

くわしい情報が入りましたらそのうちに。

(1884) 難しいことはわからないけれど 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月12日(日)21時19分34秒

閉山やダム建設という「冬」を越して
あるがままを受け入れ乗り越えてきた住民「シロ」に
泥水をかけているようなのが「すずき」などの人たちのような気がします。

それなりに気持ちに整理をつけたり
これからの大夕張に希望をつないでがんばっている人たちに
悪影響を与えなければ・・・と思わずにはいられません。

(1883) ふるさとの話 投稿者:ヒロ みうら  投稿日:05月11日(土)19時53分39秒

色々な人が入り込んだようですが
厳しい冬を乗り越えた「シロ」の生き方を見ていると
あるがままを受け入れて、乗り越える強さ・・・
なんの「かけ引き」さえも出来ない無力さの裏腹にある
無言の強さと、はかなさを感じます。

生きてゆく事の強さと、尊厳を目の前にすると
スズキ・・・何がしの事なんかは「つまらない」事と思います。
語る前に、是非見て頂きたいと尊い命があります。
でしゃばりかもしれませんが・・・一言。

(1882) 政治問題 投稿者:市橋 勝  投稿日:05月11日(土)11時26分16秒

ご無沙汰しておりました。
生臭い話で申し訳ありませんが、少々失礼します。

東京地検特捜部が夕張に入るという話を聞きました。
例の、鈴木宗男議員に関する疑惑で、「大夕張・シューパロダム」立ち退き
補償金疑惑解明に関連してとのことでした。
この問題は、北海道や夕張ではどのように受け止められているのでしょうか?
「またか」という感じなのでしょうか?

鈴木宗男氏のごとき人物が国会議員として大手を振り、しかも少なくない既得
権益で多くの人々の生活を翻弄しているということに、同じ道産子として以前
から単純に腹が立っていましたが、シューパロダムの問題まで手を出していた
というのは驚きでした。

拓銀破綻や雪印の不正に留まらず、宗男議員に絡む土建疑惑まで飛び出して、
北海道のイメージはガタガタです。長期不況回復への糸口がなかなかつかめな
い中にあって、北海道の状況をますます悪くしている政治家、産業人の責任は
極めて重いと言わなければなりません。

(1881) わかりました 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月10日(金)05時58分54秒

なんどもすみません。
「.」がひとつ足りませんでした。
写真が多いので、すごく重いですよ。

http://www7.plala.or.jp/gnome/index.html


(1880) 表示されません 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月10日(金)05時39分25秒

HPのURL間違いがないのに表示されません。
調べてから改めてお知らせします。
すみません。

(1879) 期間限定シューパロ川下り 投稿者:高橋歌子  投稿日:05月10日(金)05時31分39秒

告知板にも書いたんですが、今年もシューパロ川行きます。

そのシューパロ川に行ったクラブのHPが昨日できたので
良かったら見てやってください。
去年のシューパロ川の様子もUPされています。
カヌー関係のレポートをクリックして、シューパロ川の項目をクリックします。
洞爺湖レポートの下の方にシューパロ川のレポートと写真があります。

http://www7.plala.or.jp/gnome/indexhtml


(1878) 大感謝しております。 投稿者:海好  投稿日:05月09日(木)10時30分53秒

飯田さんはじめ、ここに関わっている皆さん
懐かしい思い出のHPを作ってくださって本当にありがとうございます。
ただ、ひたすら感謝!!感謝!!!

私の今住んでる町にも(都内ではとってもマイナーな町です。)
これからずっと保存していって欲しい建物(今も会社として現役)が
あります。
町ぐるみで『にほんさくらそう』の保存もがんばっています。
(夏目漱石の小説「虞美人草」にもでてくるそうです。)
昨冬は、TOKIOの長瀬くん主演のドラマ『ハンドク』の撮影が来てました。
保積ぺぺさんが店主を演じてた「毎々新聞」のセットがありましたよ。
ドラマ撮影現場は見ませんでしたが、一度テレビで観ました。
再放送したら(近所を)もっと細かく観てみたいとおもっていますが、
なかなかやってくれません。

今、新しい街づくりが着々と進んでいます。
あと7〜8年後には公団がたくさん出来て人口も増え
子供たちが通っている小学校も取り壊され団地の敷地内に
中学校や公園などと一緒に出来るそうです。
いろいろ便利になるかもしれません。
でも、さみしいです。
夕張は私の大切な故郷!!
私が懐かしく思い出しているのと同じく、今住んでいるこの町を
子供たちが大人になってから懐かしく思い出してくれるといいな
と思っています。

(1877) 客車ノート 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月08日(水)22時45分19秒

泊川さん、客車のノートへの記帳ありがとうございました。
悪戯を心配されていましたが、これは皆さんの良心に期待するしかありませんね。
道内の廃線跡の駅跡なんかにも、よくノートが置かれているようです。
大夕張ゆかりの方々の記帳を期待しています。

海好さん。金子診療所や南部小学校など、何処かでお会いしていたかも
知れませんね。時間や場所を越え、こうして出会えるのも飯田さんや
大夕張の多くの仲間のお陰ですね。

小野さん、お久しぶりです。どんどん書き込みを期待していますm(_ _)m

(1876) (無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:05月07日(火)11時15分43秒

やっと連休が終わりましたね 皆さん休み疲れと思います 連休中 三度 大夕張
へ行きましたが 時間が悪いのか 昼時 来た人が少ないように感じました
5日には 焚き火の跡 多分焼肉でもと思いますが 知った人には逢う事も無く
帰って来ました 皆さん海外旅行にでも行ったのでしょうね 良い天気が続いたので 
数多くの人が訪ねて来ると思いましたが 予想外でした たまたま自分の行った 
時間に誰も来なかったかも知れませんがね 今年は 雪解けも早く天気も良い
日が続いたのですが 割りに寒い感じと思います もう少しで大夕張の桜も終わり
ですね

(1875) GW大夕張 投稿者:飯田雅人  投稿日:05月06日(月)16時38分50秒

大夕張でのBBQ,よく考えると天気が良くて,桜が満開で,
残雪の夕張岳が間近に見えていて,緑一面のグランド跡で,
国道からちょっと入ったところで,・・・などと考えてみる
と,札幌でもなかなか味わえないですね。

春のこの時期,鹿島中グランドや春日町跡地など入ってみま
した。
鹿島中に行く時には常盤町を横一文字に貫くなつかしの通学
路を通っていきました。白樺林の美しさに心を奪われ,詰所
跡の池に目には見えない大きな鯉が泳いでいました。

春日町跡地では,行く手を阻む湿地帯もなんのその,弥生町
側の坂からかつて寮のあったあたりまで入りました。
河原にも降りましたが,目の前の磯次郎の沢がとても綺麗に
さわやかな流れの音をたてていました。

国道から旧機関庫の跡地や,ズリ山の手前から入る道を行く
と,かつての坑口がありました。三菱のマークもはっきり
と残っています。鉱泉が染み出し,硫黄のにおいもしていま
す。5箇所程見つけることができました。

もう少し季節が進むともう夏草が生い茂り入ることはできな
くなります。一年のこの時期見せてくれる大夕張ということ
でしょうか。

シューパロ湖は満水でした。同じところから見た三弦橋は
乗田さんのHPでもみることができます。

http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/3genkyou.html


(1874) シューパロ湖 投稿者:海好  投稿日:05月06日(月)15時01分53秒

北海道の各地をツーリングした方のHP発見しました。
きれいなシューパロ湖が見れますよ。
私は、このアングルのシューパロ湖は初めて見ました。
新しいダムにのみ込まれてしまうのは、いつなんでしょう?
さみしい。

「ふるさと大夕張」お里帰りBBQチームさん。
焼き肉はやっぱりジンギスカンですか?
久しく食べていない。
東急東横線の中目黒駅近くに函館出身の女性がやってるジンギスカンのお店が
あるらしいのです。
行ってみたいと思うのですが、やっぱりふるさとでお花見しながらのジンギ
スカンが食べた〜い。懐かしいよう(;;)
来年行けたら仲間に入れて下さいね〜

バーチャル列車の件、夕張市のHPからでも見れるのならみんな知っていたね。きっと、
と思いました。ははは...。

ところでわたしは遠幌町で鉄奥さんのご近所に住んでいたかも?
なんとなくですが...違う可能性のほうが大???

http://www.ops.dti.ne.jp/~traction/kansm02.htm


(1873) (無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:05月06日(月)14時55分14秒

29日 神社の旗を一枚 交換
 3日 天気が良かったのでね
 5日 桜の様子を見に 帰りは 万字炭山へ歴史村横の峠を通かして行きました
始めての万字炭山でした 20年前後タイムスリップした感じでした 噂の万字温泉
結構車が駐車してました 根強いファンが居るようです
お菊人形の萬念寺へ行きましたが 一般公開してないようでしたので 人形は見な
で帰ってきました 一般公開してるのでしょうかね
連休と言っても バイトの関係で 日曜 祭日も無いので遠出は出来ません 
軍資金も無いですしね 洞爺方面に行こうかと思いましたが 雪解けが早いのですが
風が冷たいですね
28日に友人と 襟裳岬へ行きました 途中 様似の凧揚げを見るべく 失敗後 次
上がるまでが 待ちきれず 立ち去りました 後日 再度の失敗がテレビで見る事
に成りました 今年の連休は 休み無し 金無し 有るのは体重だけでした
来年の連休は どう成る子とら 世間の お父さん お疲れでした

(1872) しっかりー2! 投稿者:ヒロ 三浦  投稿日:05月06日(月)11時12分23秒

僕も見ていましたよ!ローバーさん
春恒例の「ふるさと大夕張」お里帰りBBQチームです
内川さんのおっしゃっている通り
「こっちへ・・・」と思っていました。
鹿島小学校グラウンドで焼肉と焚き火は春、秋恒例となっています
見かけた方は是非仲間になりましょうねー
人畜無害、大夕張原産人間ばかりですから安心して下さい。
年代も結構バラバラでも、そこは大夕張人のこと・・・
炭鉱長屋のノリで家族同然の食事風景が広がっています
夕張岳や前岳を借景にしたBBQのお味は言葉に出来ないほどです。
往時はこの春のグラウンドで大運動会が繰り広げられましたが
デジャブのような一コマが、今はこのBBQでしょうかね・・
みんながイタヤカエの大きな幹に抱かれた、春ウララの大夕張日記でした。

(1871) しっかり見てた人 投稿者:内川 准一  投稿日:05月05日(日)23時53分03秒

ローバーさん、見てましたよ。3日の午後3時半頃、鹿島小学校跡に来て、
教会跡の階段下でユーターンして戻っていった緑色(?)の小型のローバ
ーさんですね!
よくぞ、目印の学校も無いのに、探し当ててくれました。
肉も残っていたし、「こっちくればいいのにネ」と言いながら、みんなで
見ていましたよ!

(1870) バーチャル列車で行こう・三菱大夕張鉄道 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月05日(日)21時28分15秒

夕張市のホームページからもリンクされていますが道産子ネットに「バーチャル
列車で行こう」がアップされています。
空知管内産炭地5市1町がスポンサーになっていて、各市町から一二路線ほど取り上げられています。
写真の入違いなどありますが夕張からは夕張線と三菱大夕張鉄
道が取り上げられ清水沢から乗り換えて大夕張炭山まで架空の旅行が出来ます。
http://www.dosanko.co.jp/tankou/travel/select_5/travel_yu/
yu_shimizusawa/shimizusawa_index.html

海好さん、情報ありがとうございました。 

http://www.dosanko.co.jp/tankou/index.html


(1869) 久々湊さんへ 投稿者:今井 亮  投稿日:05月05日(日)03時59分51秒

先日はメールを送っていただきありがとうございました。
ただなんと「添付ファイル削除」されており残念……

OCNのHPを見たのですが、なんだか添付ファイルは削除さ
れてしまうとのこと……がっくり

わざわざ本当にありがとうございましたm(_ _)m

(1868) 通りすがりですけど・・・ 投稿者:ROVER216  投稿日:05月05日(日)02時44分45秒

南大夕張に親戚がいて、駅の先には何があるのかずっーと気になっていました。
偶然、得意先の人と夕張の話をしたところ、昭和40年後半まで大夕張に住んでいた
との事で、今回大夕張を初めて訪れてみました。当日は学校のグランドで宴会を
している方々に偶然お会いしました。夕張の中でも大夕張の子供達は強力な結束力が
あったとか。一つの町が消滅してしまった今の風景には慄然としてしまいましたが、
これからも大夕張出身の方々には炭坑の町を語り継いで欲しいと思います。
南大夕張は私にとっての原風景の一つですが、その先にあった大夕張の町を
私も忘れずにいたいと思います。ダムなんかやめればいいのに・・・

(1867) 佐藤キンセイ堂時計店の思い出 投稿者:小野美音子  投稿日:05月04日(土)21時04分42秒

皆様、お久しぶりです(^^
先日、大夕張の犬のことが話題になっていたのがきっかけで、
懐かしいスピッツのことを思い出しました。
栄町の佐藤時計店の御主人は髪がオールバックで、片方の眼に
黒い筒状のレンズをはめていつも修理にいそしんでおられました。
(そのレンズが瞼からどうして落っこちないのか不思議でした^^)
同級生のテッちゃんと姉のユミちゃんには、幼稚園の頃ずいぶん仲良く
遊んでもらいました。おばさんが歓待してくださり、おむすびを
作ってくれたり、色々なおやつをご馳走になった記憶があります。

その頃は白いスピッツが人気で、よく吠える性質だったようですが、
佐藤家のスピッツは愛嬌があって躾けも良くとても可愛い犬でした。
犬のシャンプーには、不便なお風呂だったようなので、
我が家で洗うことになり、時々母と迎えにいっては、犬を預かり、
うちのお風呂で遊ばせながらシャンプーをしました。
シャンプー後、水をたっぷり含んだ犬が身体をブルブルさせると
ガンガン燃えたストーブに水滴が飛んでジュジュジューッ!と
蒸気の白煙がモワーッとあがり、これがまた面白く大騒ぎをしました。
ワンちゃんはその晩お泊りし、翌日母が戻しに行っていたようです。

大夕張を去る時、ワンちゃんのめんどうをみて可愛がった感謝の
しるしにと思いがけなく、母が珊瑚の指輪をいただきました。
佐藤さんの御主人は閉山後、大夕張を離れてから数年後、若いのにも
かかわらず、残念ながらすい臓を病まれてお亡くなりになられたそうです。
風のたよりで御家族の皆さんはお元気と聞いています。
珊瑚の指輪は現在私のところに届き、いつか大夕張に行くことができたら
ぜひ身に付けていきたいと願っているところです。

(1866) 水仙 投稿者:斎藤  投稿日:05月04日(土)21時02分31秒

5月3日チャット仲間で、鹿島小学校に集りBBQを楽しんできました。好天にも恵まれ
終日春の陽射しの下、大夕張を満喫することができました。
鹿島小学校正面玄関横の桜の木はまだ開花していませんでしたが,フキノトウが花盛りで
「満開の笑み」で向かい入れてくれました。

樹齢200年ともいわれているイタヤカエデの木も相変わらずの笑顔で待っていてくれま
した。ただ,あのブランコのロープが相当枝に無理をかけているという専門家の助言に基
づき,仲間たちでロープをはずさせていただきました。はずしたロープは今までの感謝を
込め,子供たちの手で焚き火の中で燃やし,天国へ送らせていただきました。

春先の大夕張はまだ草木も繁らず,地形を良く見渡すことができます。富士見町を探索し
たが,かつての住宅跡地に所々に咲いていた水仙の黄色い花が印象的でした。そして視線
を稜線に移すと,前岳と夕張岳がとても良い顔をして目を細めながら僕らを見ていました。

行く度にどんどん姿を変え,何にもなくなった大夕張ですが,あの大地に佇むだけで安ら
ぎを感じます。また,機会があれば「大夕張」に逢いに行こうと思います。

(1865) 夕張シューパロダムのこと 投稿者:宇良田 彰  投稿日:05月04日(土)17時07分35秒

メールアドレスが変わりましたので久しぶりで投稿致します。
掲示板や住民登録のページに夕張シューパロダムのことが結構載っていたので
サーチエンジン(GOO)で調べてみました。
このダムは北海道開発局の事業で、現在の大夕張ダムの下流155mの所に
高さ68m、長さ252mの日本で第4番目に大きなダムになると下記のサイトに
掲載されていました。但し、予算の関係で完成時期は不明とのことです。
興味がある方は下記のURLにアクセスしてみて下さい。

http://www.is.hkd.mlit.go.jp/contents_04/jigyosyo_12/01.html

(1864) こんにちは 投稿者:こん  投稿日:05月03日(金)14時11分36秒

近藤と申します
南部若美町に小2の8月から中3の6月までのほぼ7年間(S57からH1)すんでおりました。
シュウパロ湖のサイクリングロード(その頃は鉄道も南部が終点でした)を
学校が終わるたびに友達と行くなど
自然一杯の生活をしていたのを昨日のように思い出します
ほぼ毎年のように夏になると南部や大夕張を通るのですが
自分がすんでいた頃のにぎやかさを思い浮かべるたび、切なくなります。

実はシュウパロ塾の正木先生に小5・6とお世話になっていました。
この掲示板の過去ログを見ていたら比志先生のお名前があって懐かしく思いました。
何年か前にも清水沢のご自宅に前触れもなくお伺いしたりしています。

私と同年代の方は少ないようですがよろしくお願い致します。

(1863) メール有り難う 投稿者:山田盛幸  投稿日:05月02日(木)10時20分01秒

藤田さんメールアドレス違いか、返信できませんでした。
何とか、連絡とりたいので、再度送って下さい。
5年位前に大夕張行ったとき、さすがに春日町までは降りなかった。
札幌、中之島公園で4人で逢ってから30年になりますか、
最近、ダムはいらない!マスメディアで騒いでますが、実際出来るんでしょうか、新しいダムって。
でも、取り付け道路を現道より上に造り始めているようですが。
情報は有りません!知らないだけかもしれませんが!
藤田さん、電話で連絡できるようにお願いします。

(1862) わたしも海が好き 投稿者:海好  投稿日:05月01日(水)14時46分49秒

飯田さん♪そーなんですよね。わたしもです。
夕張には海がないから憧れが強くなってしまっていたんでしょうね。
今、東京の荒川脇に住んでいます。
河川敷を散歩していると海まで18キロという表示があります。
歩いては行けませんが、「この先に東京湾がある。」と思うだけで
なんだか安心します。
でも今、夕張が懐かしくて懐かしくてたまりません。
懐かしくなったきっかけは昔好きだったフォーク歌手から始まって
ここにたどり着いたんですけど...

(1861) (無題) 投稿者:泊川俊徳  投稿日:05月01日(水)09時59分08秒

4月29日 大夕張へ行って来ました 先週に続き二回目です 今年は雪解けも早く
昨年も29日に来たのですが まだ校庭の記念碑付近から神社にかけて雪が有り
神社に上がるのに わざわざ長靴を昨年は用意しましたが 今年は神社まで雪が
無く蛇が出て来ても可笑しく無い感じでしたが風が寒かったです 神社へ行き
旗の代わりに 熊出没の暖簾を 一枚付けて来ました 昨年も暖簾を付けました
他の旗は 随分とヨレヨレに成ってしまいましたが予算が乏しいのでね 冬の間に
悪戯されてたら もう旗は付けないと思ってましたので 前持って用意してません
でした 気が向いたら 一枚づつでも取替えようと思います
桜は 3 4 5 6日頃には咲くと思います 清水沢駅駐車場の桜は つぼみで もう
少しと言う感じでした 
12時頃から1時間半位居ましたか 何台かの車が出入りしてました  帰りに清水沢
駅前食堂に入ると おかみさんが正月NHKの番組に出てた人でしょ 食堂で話題に
成ったようです 食堂に来る人の中にも 昨年のロケに参加された方が居るようで
した 自分は 駅前食堂には何度か入った事が有るので おかみさんが覚えてた
ようです  また 天気が良い日に行きます

先頭にもどる