大夕張の夜

     内 川 准 一
                                          (文・カットともに)
                昭和24年5月8日大夕張生まれ。昭和37年4月,札幌に転出。                


 1999年6月5日土曜日
 私は鹿島小学校の庭にテントを張り、一人だけの大夕張の夜を過ごした。
 あの賑やかだった大夕張が、既に無人の街になっていた。

 かつて、何千人の子供達がここで生まれ、泣き、笑い、溢れるばかりの想い出を胸に去っ
ていったと思う。私もその一人だ。
 この日は、長い空白の時を経て、50歳を迎えた私にとって、37年ぶりに過ごす故郷の
夜なのだ。

 多くのものが既に失われて、最後に残る小学校さえ無くなろうとしている今、想い出をた
どれるのはこれが最後の機会になるかもしれない。
 そうなる前に、大夕張の空気を吸い、昔の人のことを思いながら眠りたい。
 そして、誰もいなくなった大夕張の夜を支配しているのは何なのか、大夕張が大夕張であ
り続けるための最後の条件は何なのか。それを考えたい。
 それが校庭で泊まるきっかけだった。

 5日の午後は暑いくらいの日射し、午後2時現在、陽は高くハルゼミが賑やか。
 当然ながら携帯電話は圏外を表示。これでいい。
 校庭は野鳥と蝶の遊び場の風情、様々の鳥達が訪れ、蝶が戯れる。
 なんとトンボまで飛んでいる。
 大夕張はトンボが遅かったはずなのに!
 校庭はずれのブランコは、雪の重みのためか、軸がぐにやりと曲がっている。
 もう誰にも遊んでもらえないブランコは、それでも、ムクドリ達の巣として最後のお勤め
をしている。
 富士見町の山側からはチェーン・ソーの音が響いてくる。
 今は国道452号となった道路も、ひっきりなしに車が通って賑やかだ。
 釣客、山菜採り、ドライブ目的、いろんな車が来る。
 昔はこうじやなかったね。
 夕方に近くなってもいろんな人が校舎の前に現れる。
 バイクで来る者、小学生くらいの子供を連れた家族の車。

 便所場球場と呼ばれている場所でトノサマバッタを追った日々があった。あれくら
いの低学年のころ、そしてこんな日射しの強い日に。
 いつも逃げられたバッタを、帽子片手に追い続けた数年。しかし高学年になってか
ら立場は逆転した。バッタが逃げ切ることはもうできなくなった、そして私も殺傷を
しなくなった。少し大人になった。

 校舎は6時頃までは日が射しているが、日陰に入ってからは、ゆっくりと闇の中に沈んで
いく。青い屋根、クリーム色の壁、レンガのアクセント、3階に届くまでに育った木々。
 黒く沈む窓ガラスが不気味。夜空に浮かぶ圧倒的な存在感。
 裏山の木々も良く茂ったものだ。時々食べたクワの木はどこいら辺だろう。
 星空がだんだんくっきりしてくる。明るい星空、たくさんの星。空が狭い。
 南部の山影さん差し入れの手料理で食事をし(ご馳走様)、戴いた本をランプの下で読む。
 南部の昔の出来事が新鮮だ。
 いろんな出来事も個人史の形だからこそ生き生きと残せるのだと思う。素晴らしい。


 私にも思い出すこと、思うところがいろいろあった。
 当時は人間環境も、自然環境も、そして炭坑が頂点を迎えた時代背景もあって、エネルギ
ッシュな独特な雰囲気が街にあった。
 そして、ベビーブーマーと呼ばれる私達の年代の子供は、大人の世界と子供の世界がリン
クしている恵まれた環境の中で育てられたのだ。
 親子の断絶などは無かった。テレビはおろか小学校に上がる前はラジオさえ無かった。
 我が家の晩御飯はおしやべりの時間だった。
 狭く乏しい中での恵まれた生活だったのだ。


 私は、そして、昭和37年の春に小学校卒業と同時に大夕張を離れたため、斜陽に向かう
大夕張をほとんど知らない。
 その後も、長い間、大夕張を訪れていなかったために、子供の目で見た印象が冷凍保存さ
れたもののように新鮮なのだと思う。

  無人になってしまった大夕張は、街のあたりにだいだい色の街灯が灯って寂し気で
す。
 官行方面から来る車のヘッドランプが一瞬、校舎の時計塔を夜空に浮かび上がらせ
ますが、それも9時頃までで、その後は富士見町のカエルの合唱が賑やかです。
 家2軒だけになった旧駅前通りが明るいので、一人で深夜の散歩してみました。
「太古の森を切り開き、埋もるる宝返さんと、力よ、誉れよ、血の響き・・・」
 昔、商店街だった通りに声が吸い込まれて行きます。
 月夜の校庭では、楓の大木の近くに「母と子」の像がたたずんでいて静かです。
 風も無く、校庭の楓の葉音も無い静かな夜が過ぎていきます。

  明けて6日は素晴らしい快晴。
 山の霧が晴れるほどに視界が広がり、校庭中のタンポポが見る見る聞き出す。
 青空がまるく見えて、山の後ろから真っ白い雲がわき上がる。
 思えば、山の陰から現れるものはいろいろあった。
 飛行機雲もヘリコプターも音が先にあって、本体は850の裏から突然出たりしたものだ。
 太陽も月も、みんな夕張岳の陰から突然現れていたような気がする。
 頭上の空は、コントラストが高すぎて何か現実感の無い眺め。昨日の夕焼けもそうだった
けど芝居の背景のような雰囲気だ。
 山に囲まれた大夕張には地平線がない。地平付近にありがちなもやもやがない。
 朝日はカツとした熱気を伴って顔を出し、夕日は明るいままに沈んで行く。
 夕陽は見えないのに、頂が赤く染まった夕焼け雲だけが官行の空を流れて行く。
 こうして、盆地の大夕張は急速に夜の世界に入って行くのだった。

 昔からそうだったのです。子供らはチャイムの合図で山を下り、暗くなる前に家に
急いだものでした。
 裏の長屋からは、下山淳一のお母さんが、「しょっこ−、しょっこ−」と子供を呼
ぶ声が聞こえ、長屋の至る所にご飯を焚く臭いや魚の煙などが漂っていました。
 そのときも、地底では、父たちが昼夜の別無く石炭を掘っていたのです、命がけで。
 いさぎよい昼夜の交代、夜の長い町、これが大夕張の一つの顔だったのです。

 早朝から飽かずに眺め続ける夕張岳が変化する。
 シルエットから順光に変わると不気味さが消えて表情が穏やかになる。
 残雪が白く山肌とのコントラストが美しい。大夕張の昼が始まる。
 もし、当時の大夕張が続いていたならば、今日あたりは運動会の日で、何千人の声援が校
舎を揺るがし山々にこだましていたことだろう。そして、あの日もそうだったように、フ
ォークダンスの輪の中で、男子生徒達が照れくささを隠しながらも、何十人かの女生徒と
手を取りあっていたことだろう。


 校舎の廻りを歩くと、どこから入ったものか、中に鳥がいる。
 あちこち出入り口を点検してみると、厨房のドアが開いた。中に忍び込み、大捕物の末に
セキレイを捕まえる。
 野生は力強かったが、捕まってからは指をつつきもせず観念しているのが可愛いい。
こいつのおかげで、思いがけず校舎の中に入ることができた。感謝!
 6年菊組だった教室には、何故か埴輪等がたくさんあって、他とは違った雰囲気だった。
一緒に忍び込んだ富良野のバイクツーリストに写真を撮ってもらう。(寂しげな表情に写
っていて、後でびっくり)


 用意してきた特長靴をはいて川を渡り便所場球場に足を運ぶ。
 球場への吊橋はすでに失われて、頑丈な橋脚だけが川の中に取り残されていた。
 橋脚には流木が引っかかって山を作っていた。
 それに登って辺りを見ると、「春日橋」の文字が目に入った。この橋は春日橋という名だ
ったことさえすっかり忘れていた。何百回となく渡っていたはずなのに。

   当時、我が家では猫を飼っていた。猫は雌で時々机の中に仔を生んだ。
   子猫達が可愛くなって情が移らないうちに捨ててくるのがうちのやり方だった。
   子猫のもらい手は無かったのだった。
  いつもは父の仕事であったそれが、一度だけ、何故か私の仕事になった。
   しかもこのときは、子猫も少し成長していて可愛いかった。
  私は紙袋に子猫達を入れ、春日橋の中ほどからそれを川に投げ込んだ。
  増水で濁って波立つ川に落ちた袋は簡単に水に飲み込まれ、それっきり見えなくな
  った。

 私は目をそらさないでそれを見ていたことは覚えている。けれど、思い出せるのはそのこ
とだけだ。
 この時、子猫達が何故いつもより成長していたのか、いやな仕事が何故私の仕事になった
のか、春日橋の名をこの日まで忘れてしまっていたのは何故なのか、これらの出来事は、
あるいは互いに関係していたのかもしれないが、今はもう分からない。


 下の水面を見ると、泥の多い浅瀬に、カジカのこっこが一匹いるのが見えた。何故かほん
わりした暖かい気持ちが湧いてくる。

 思い出しました。手を差し入れると暖かく感じるようなこんな浅瀬にはよくこいつ
らが日向ぼっこしていて、子供達の遊び相手になってくれました。
 小さい子供達にも簡単にすくい取れたものです。
 当時は男の子も女の子もなく、服が濡れたら裸になって絞り、乾くまで付近で泳い
だりしたものでした。何のこだわりもない、天心爛漫だった時代のことでした。

 少し嬉しくなって、元気が出てきた。
 かすかな風に乗って柳の綿毛が流れて来る。中州ではチドリもチチチとさえずっている。
 みんな昔と同じだ。便所場球場にも行ってみよう。


 球場には昭和36年当時の面影は無かった。立派なバックネットが錯びたまま立っていた。
 当時はこれさえ無かった。グラウンドも一面だけだったように思う。
 このはずれでよく化石採りをした。化石の穴場だった。けれど、今はもう深い薮、育った
林に隠れて分からない。
 しかし、変わらないものがあった。フェンスに登ってみると、球場の外を大きく迂回して
流れるシユーパロ川の下手に大きな中州があって、沢山の木が生い茂っているのが見えた。
 中州を囲んで二手に分かれた川筋の一方は、ほとんど流れが無く、池のようになっている。
 昔と同じ。40年前から少しも変わってないかのように。


 自分でも驚くような声が出た!「やっちゃん、あるよ!」
 当時の友達の名前が口をついて飛び出した。
 隣に住んでいた茂木保夫くんと木の潜水艦を作って、潜水時間を競争したのがここだった。
 親父譲りの器用さで、工作では歯の立たないやっちゃんだった。
 30年以上音信が途絶えている、遠くに住んでいるけれど会いたいものだ。
 再び川を渡って戻り、他の場所へも行ってみることにする。

 この辺りの川は冬になると、川幅の半分くらいまで氷が張って、その上に、誰が作
るのか、円錐形の粉炭の山がいくつも築かれていたものだった。
 乾燥させるためなのか、半ば凍りついたままで氷の上に立っていた。
 石炭がただ同然だった大夕張にあって、炭坑職員でない誰かが、川底の粉炭をスコ
ップですくって積み上げて作ったものだった。切ない重労働だっただろうと今は思う。

 至る所に鹿の足跡がある、鹿島に鹿は、昔はいなかった。
 けれど熊は時々食べた。街にはハンターが大勢いて、冷蔵庫の無い時代だったためか、仕
留めた獲物は解体されて、近所中に振る舞われた。おいしくなかった。
 子供らには、決められた範囲(家から見える範囲)以上山奥には入らないこと、暗くなる
前に戻ることが義務づけられていた。
 春日町の裏のシェーバロ川の縁に熊が現れて大騒ぎになったこともあった。


 官行のダムへ寄る。崖の斜面を下る前から轟音が響いて、すごい水量。
 下りきると、川幅一杯に巨大な取水堰があって、当時と同じように見える。
 ほとりには、今は使われていない取水施設に夕張マテリアルの会社名と平成4年の「水利
権」の表示がある。最近まで現役で使われていたことが分かる。
 このダム(堰)の付近は子供らのよい遊び場だった。
 ここまでくると水もきれいで、気持ち良く。夏になれば水量も減って、ダムの上流では泳
いだり、ヤスを使って魚採り。下流ではヤツメウナギを手で捕まえたりした。
 明るい気分。青空、蝉の声、覗きめがねとゴザッペ(?)、暑さと涼しさの混じり合った
空気、水音と静けさなど、子供時代のうきうきした感覚が戻ってくる。

 官行へも少し足を伸ばす。当時、森林鉄道は、初音沢の鉄橋に行く手前で崖の中腹を切る
ょうに大きくカーブしており、切り立った線路際には木も生えず見通しがよかった。人は
 皆、線路の縁を歩いて奥へと向かった。

 ある年の十五夜の日の夕方だった。この年はどうした訳か、何千人もの人がススキ
を求めて官行に繰り出したのだった。早い時間に乗り込んだ私は、帰路にはカーブし
た崖で人混みとすれ違うはめになった。同級生の婦さんぶって見えた女子達が親に見
見せる、甘えた笑顔が新鮮だった。

学校に戻った私は、かなりの時間を校庭で過ごした。


 私の住んだ弥生町は20年以上も前にとっくに失われていた。
 そして、あまりにも長い空白のために、沢山の大切な記憶を失っていた。
 断片的な記憶の中で、沢山のもどかしさが残った。
 午後になっても、私はまだ校庭に座っていた。飽くことなくそこにいた。去り難かった。

 ここは、私の故郷です。
 しかし、もう故郷ではないような気もします。
 故郷はもうとうの昔に失われていて、ここにあるのはその残骸にすぎないようにも
思えます。
 そして、最後に残った小学校が失われとき、ここはもはや大夕張でなくなるかもし
れません。
 人の営みの痕跡が消えることがこんなにも重いこととは、知りませんでした。
 父母の存在の痕跡も、私が生きていた証も無くなったとき、故郷は記憶の中で遠く
なっていくだけなのでしょうか。
 炭住の黒い屋根の上に聳えていた夕張岳が、湖に映る夕張岳に変わっても、ここを
故郷と感じることは可能なのでしょうか。


 空しさを通り越して、せいせいするくらいに、あんまりだ。
 1万8千人の街が無人の街になってしまうなんて。
 それでも足りずに、人々が生きてきた痕跡さえも消してしまうなんて。
 なんということだ!


 いいや、巨大な伽藍堂になってしまう大夕張だけど、その上に超然として夕張岳が
ある限り、私の想い出が風化することはない。
 私は、夕張岳とそこに連なる多くの自然の恵みがあったからこそ育ったのだ。
 私の精稗や志向は、ここに生まれ育ったからこそ形成されたのだ。
 私自身も夕張岳の一部なのだ。大夕張の一部なのだ。

大夕張の夜
まだ結論は出ていない。
しかし、このときのまる1日と数時間の大夕張滞在には、恵みがあった。
そして、私は、最高に心豊かな時間をここで受け取った。


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