【平成11年(1999年)】

平成11年 5月16日 
原付きデブマン

小学校の解体近いということで昨年から原稿用紙のノートは一旦引き揚げて、新しいノートに交換しました。解体工事で今までのノートが紛失すると、いろいろ書いてくれた思い出や一言の文章が勿体ない気もします。今後も数多く書いてくれることを期待したいです。


平成11年7月20日 
原付きデブマン
5月にノートを交換して約2カ月、6月はバイクの故障や日曜の天気が晴れの日が少ないため、なかなか来れませんでしたが、ノートは見るも無惨、破られペンもなく、この思い出ノートはもう駄目かも知れません。
2カ月間の部分が無い。いろいろ書いてくれた人もいたと思いますが、何か勿体ない気もするし、頭も心も貧弱なイタズラである。
駄目でもともと、このまましばらく置くことにします。

明石駅、シューパロ湖畔の展望台も、旧三菱鉱業所、事務所、進発所(風呂、着替え)の建物も解体されました。
次回、このノートが生きていることを期待して一回りして帰ります。


平成11年7月20日
宮城県のものう町の丸信くらぶ、オイホシFZRヨリ
警告、私は通りすがりのハイカーです。国道を走っていると人気のない地帯に入ってビビッていると、体育館が見えたのでここまで入って来ちゃいました。ここはいつから誰もいないのでしょう。
焼き肉ライダー、参上。


平成11年7月21日 
OSAKA ふた
夕張鹿島小 晴
大阪から来たツーリングライダーの、フタと申します。生まれも育ちもバリバリの、なにわっ子です。
僕が来たときボールペンが無かったので、10キロほど走って買ってきました。とりあえず置いて帰るので、もっていかんといてや。で、文具店のおばちゃんに、いろいろと栄えていた頃のお話しをお聞きしました。もうすぐ取りこわされてダムの下に沈むとか。なんとせつなくてはかないものなんだろう。この校舎が今後どうなるかは市の役人が決めるというか、もう決まっているんだろうけれども。卒業生諸兄、思い出は貴方達の心の中に宿っていますよ。えらそうなことを書いてすいません、これが皆様の目に届くかどうか疑問ですが、
みんな、がんばろーね。

PS 僕は今、僕は今グランドを走り回る子供の声と迫力ある蒸気の音を出して走るSLの音を感じています。
I LOVE 大夕張


平成11年7月21日 
鹿島小出身の中年男より。
大阪のフタさんありがとう


平成11年7月24日
不 詳
宮城県から来ました。
私は夕一小、夕一中卒で、鹿島といえば中体連でバスケットが強かったなぁ、という思いばかりです。けれどもやっぱり、学校が無くなるのは辛いですよね。故郷から離れれば離れるほど、少年時代から時間を過ぎれば過ぎるほど、思いは強くなるように感じます。

不 詳
過去として振り返るだけでなく、
今に生かす勇気や頑張りや、時には慰めに、小中学校時代「そして、この場所」を心に刻みたいと思います。ここにわざわざノートを置かれた方に敬意を伝えたいと思います、どうもありがとう。そして、あちらこちらで生活する、かつての夕張の住人である皆さん、お元気で。


平成11年7月24日
千葉一洋 陽介 他一名
1)福島から来ました、?半屋?半金 です。偶然この学校を見つけたのですが、寂しい草木の生えた場所にノートがあり、ペンを執りました。
2)江別在住の千葉一洋です。今日は天気が悪いためか、この学校がたいへん不気味に感じました。
3)福島からバイクでツーリングしてきた千葉陽介です。
面白半分でここに寄りました。このノートを見つけ、他の人びとが書いてあるのを読み、ペンを執りました。すごく良い校庭で、大きな木にあるブランコにすごい興味がありました。もうここに子供達が来ないというのは寂しいことですね。


平成11年7月25日 
庄川良太郎
石川県からスーパーカブで来ました。鉱山の写真を撮っています。ニュースでダムに沈むというのを聞いて、あわてて撮りに来ました。やはり、切ないですね。


平成11年7月27日
不 詳
昭和37年卒業です。横須賀から来ました・・・・残念です。


平成11年7月30日
水谷藤雄
神奈川県寒川町より46年ぶりに来ました、水谷藤雄です。
たいへん懐かしいです、廃校になって残念です。


平成11年8月1日
不 詳
京都から来たライダーです。何も知らずに立ち寄ったのですが、なんだか寂しいことですね。


平成11年8月1日
松村
札幌からスクーターで来ました、松村です。


平成11年8月?日 
大宮市 高橋清一
50ぶりに大宮から訪れて来ましたが、廃校になっており非常に残念でもありまた、たいへん懐かしく目に焼き付けて帰ります。同年輩の方、懐かしい話しでもいかがですか


平成11年8月4日 
福岡から来たライダー
思い出のいっぱい詰まった小学校が取り壊されるのは、とっても辛いことですね。とても残念とは思いますが、その思い出を大切にしてください。


平成11年8月6日 
名古屋から来たライダー「赤黒CRM250」
ライダーハウスで出会った人に、ここの事を聞き、やって来ました。無くなってしまう学校って寂しいですね。卒業生の皆さん、大きなお世話かも知れませんが思い出を胸に頑張ってください。
 FROM 山田


平成11年8月7日 
大阪から来たライダー 北の
この学校が無くなったら、本当に悲しいと思います。
ここに来たことは、忘れません。


平成11年8月7日 
AT
何度か来ています。いろいろあって何も言うことありません。


平成11年8月7日
不 詳
新聞で、この学校が無くなることを知りました「解体」。
この小学校を卒業した方がたには残念でならないと思います。


平成11年8月8日 
厚岸町から来た 大沢
この場所は私には直接関係はなく、私の彼女が幼少の頃居た所で、二人で4月に一度来ましたが何か自分でも懐かしく感じ、バイクで一人で来ました。今、彼女は幼いときに、この学校がこーいう感じだなーと想像してます。ここがダムになる、というのを聞いて残念に思います。私が育った町が、こういうかたちで無くなるとしたら、とても辛いと思います。
また何時かここに来て、彼女のこと思い出せればいいな。
学校の卒業生では無いけれど、私にとって思い出の場所です。


平成11年8月8日 
次男 美奈子
一年ぶりで来て、ビックリ。
明石町の駅は無い、千年町無い、教会無い、
どうしよう、大夕張の町無い、悲しい。


平成11年8月8日 
斎藤敏幸
今でも、鹿島小学校は生き続けています。


平成11年8月8日 
原付きデブマン
世間もマンザラ悪い人ばかりじゃない。7月20日に来た時は、ペンは無くなってるしノートは破られ、もう書く人もいないとあきらめていたが、書いてくれる人がいました。置いて良かったと思います。頭と心の貧しい人のイタズラには困りますが、あきらめ半分のノートにわざわざペンを遠方まで買いにいった人も、親切な人もいますね。


平成11年8月8日 
旭川 ケースケ
旭川から来たケースケと申します。夕張には昔からよく来ていました。「母の兄弟がいるもんで 」。
この町がダムの下に沈んでしまうのは残念ですね。僕も自然の多いこの町が好きでした。今は場所を借りて、親戚一同で焼き肉してます。ダムの下に沈む前に、また来るか分かりませんが、この学校やこの風景を忘れないでしょうね。なんとも下手な文章で申し訳ありませんが、卒業生に贈る言葉にさせていただきます。


平成11年8月8日 
東京 50才女 川島
東京から来たのですが、これが校舎の見納めかと寂しく思いますが、心の中に焼き付けておきます。
S25年生 堀 百合子 佐々木多枝子「旧姓 熊谷」仙台。
S24年生 北田 和子 「千葉」 川下美恵子 札幌。


平成11年8月11日 
横浜 金房
こんにちは、横浜からやって来ました金房と申します。この土地とは直接関係はありませんが、生まれが鉱業で栄えた町でしたので共感のようなモノを憶え、何時か訪れてみたいという願いを今日かなえることができました。廃校というと窓という窓は、ことごとく割られ、スプレーの落書きだらけでやたらと荒廃してるイメージがありますが、ここは夏休みなのかな?と、一瞬感じさせるほどきれいでした。一部、心無い方もいらっしゃるようですが、この場所を訪れる方がたの良識ある行動に、柄になく感動しています。また、「思い出いっぱい そして永遠に」も、学舎への感謝の気持ちと将来への決意が表れているように感じられました。「?仮名」を終えてなお、何やら勇気を与えてくれそうな廃校というモノを見るのは初めてです。
でも、この土地もろともダムの湖底に沈んでしまうのですね。それでも人の心がある限り、思い出は生き続けると思います。ヨソ者の私が書くのもなんですが、この土地を訪れ、師の友の声に耳を傾けてやってください。
乱文、乱筆スミマセン。


平成11年8月11日 
栃木から来た 東条
自分の母校が廃校、しかもダムの底に沈んでしまう。そんなことがあったら、どんなに悲しいことか、心が痛くなります。
卒業生皆さんに幸多かれんことを祈るばかりです。


平成11年8月11日 
小学校 同窓生 
最後に生地として大夕張に来たが、三笠まで行ってしまいました。途中、判らなくて、懐かしさと同時に自然の生育の力にも感心した。今、57、8年前に卒業した母校の前に立ち、少し感傷を感じます。大きな生地だと思ってましたが、小さな町だったと思う。?自我と?再友?別の???ています。来年また来れるかどうか、この建物がまだあるか、私はまだ健康であるのか。
湖底で鹿島、永遠に。


平成11年8月13日 
JNR TAMA
長野より来ました、湖に沈んでしまうと聞いています。全国のいろいろな廃墟を見ていますが、何処でも荒れていくのは一緒ですね。人が居なくなると崩壊は進んでいきます。勝手に入り込んで、あつかましいですけど、見学するのならば破壊はしない。物を荒らさない事のマナーを守って、そこで卒業した人びとの思い出を壊すことは、さけたいと思っています。お邪魔しました。


平成11年8月13日 
tac@aa.mba.or.jp
東京よりまいりました、昭51年この小学校中学校の卒業生です。ノートの?カキコも、ライダーの方や遊びに来られた方が多いですね。学校は今も昔も変わらず、同じニオイがします。何かのかたちで残せたらと切望するばかりです。

子供が最後まで居た小学校です、あまり汚さないでください。


平成11年8月14日 
TOM
品川から来た。体育館まだ使えるやん、もったいないで。


平成11年8月15日 
田中
旭川から来た田中です。
主人と子供と小学校、中学校、東高校、3校卒業させていただきました。
本当に長い間ありがとう、いろいろな思い出あります。運動会、お祭り、お参り?きのこ採り、フキ採り、いろいろ限りありません。寂しい限りです。
本当にお世話になりました、ありがとう。


平成11年8月15日 
室蘭 長内千恵子
室蘭から来ました。もう見ることができないと思って車で来ました。
学校が見れてほんとうによかったです。昔のままの学校があってて、涙が出ました。45年前に卒業しました。


平成11年8月15日
不 詳
大夕張を訪れて7年目、いや、8年かな、いいところです。でも、学校が荒廃するのは我慢できない。私は大夕張に、生まれても生活もしてません。ですが、いいところです。何人かの人にお世話になりました。ありがとうございます。


平成11年8月17日 
塚田秀樹
小学校5年生まで、この学校にいました。37年前のことです、「現在47才」。現在は横浜在住です、子供の頃の思い出がいっぱいです。
とても残念です。


平成11年8月19日 
N S
また来ます。


平成11年8月19日 
川崎 上野
川崎から来た、上野と申します。人の世の移り変わりをヒシヒシと感じます。


平成11年8月21日
「成」
残念ながら夕張岳は頭を出してくれません。今月中に解体と聞いてやって来ましたが、まだ、故郷の砦、鹿島小学校はありました。さっき鹿島中学校の入り口まで行ってきました、鹿島橋も沈んじゃうんですね。鹿中26期生です、この鹿島小学校はS45年卒業です。6年梅組、本間先生でした。ちなみに、1−2年松組、及川先生、3−4年、竹、梅、池城、正木、堀田、5−6年梅、本間先生です。思い出いっぱいの大夕張、来れる限り来ます。
パソコンお持ちの方は「教育と大夕張」をご覧になってください、懐かしくなりますよ。
さようならー 


平成11年8月22日 
K M
久し振りで来ましたが、ひどい有様。何でこんなふうになったのか。ノートは破られているし、ガラスも割れ放題、きれいなまま残して欲しかったのに、しばらく来ないとこんなふうになってしまうのか。できれば原付きデブマンさんに逢いたいのですが、また来るようにします。
ボールペン買って置いてくれた方、ありがとうございます。


平成11年8月23日 
小林 英範
お盆に子供達と来たとき、下の子供の靴を落としていきました。今日忘れ物を取りに来ました。靴はありましたが、町はやっぱり無かったでした。
また、来ます。


平成11年8月28日 
工藤美代子 「旧姓 篠?」
町がない、寂しい。ここで生まれて育ったのに、何も無い。いつまでこの小学校があるか分からないが、昔のまま、涙が出そう、悲しい。今度来たときに、あるだろうか? また来る。


平成11年8月28日 
名寄市 OBA
予定では明るいうちに到着し、裏山に登って何も無くなった町を見るつもりでしたが、途中で時間を繰ってしまい登ることができませんでした、残念。
この秋に解体されると聞きましたが、それまでにもう一度来たいと思います。


平成11年8月29日 
原付きデブマン
今月2回目、15日は以前勤めていた会社の人と夕張石炭の歴史村へ行った帰りに寄った。今日は歴史村の炭鉱見学坑道の入り口と中に、懐かしい大夕張の写真があるので、自分のカメラで展示してある写真を写しに来た。友人と来たときは人が多かったので写せなかった。K M さんは最近来てないようだ。今年の春、引き揚げたノートをワープロで書き直したのを送るつもりだったが、住所が判らない。昨年の春からノートには毎週のように書いてくれてました。

(このノートを書いていると、K Mさんのほうから声を掛けてきたので、い ろいろ話しをして住所を聞いて送りました)


平成11年8月31日 
横浜市港北区 小池 章
春日町10番地、小学校第14期卒業、70才。
この寂しい大夕張を見て涙が出ます。二度と来ることは無いと思います。
ここに来る皆さんも、きっと健康で


平成11年9月2日 
J M
私はこの学校の卒業生です。
いろいろ思い出ありがとう。


平成11年9月2日 
千歳の I A
何年ぶりに鹿島に来ました。学校が無くなって寂しいです。
たくさん思い出ありがとう。


平成11年9月5日 
原付きデブマン
3週間続いていた夕張メロンの時期も、そろそろ終わりのようだ。昨年も今年も安いメロンは食べられなかった。
なかなか鹿島小学校、解体されない。いつ解体されるのか?
今日も、昔懐かしく家族連れが車で何組も来ています。少し回って小学校に戻ってみると、門にビニール紐で閉鎖している。何でと思い裏から回ってみると、迷彩服を着た3、4人がモデルガンでコンバットゲームをしている。土曜、日曜は家族で小学校を見に来る人も多く、誰に断りもなく入り口の門を閉鎖して、いい若い者が戦争ごっこで遊んでいる。何様のつもりかと思い、帰りに南大夕張の交番へ行き注意してくれと言いましたが、果たして注意してくれたかは分かりません。

ノートも別なノートに取り替えました。校舎が解体される日が分からないので、ノートが無くなってもいいように早めに交換した。これから紅葉の季節、来る人も多いと思いますが、

1999年 5月末頃まで順調にそれぞれの思いを書き続けてもらったのですが、一部、頭と心の貧弱者が破り、訳の分からない走り書きのイタズラを書いていく人が多く、9月5日までは小学校校舎も健在でしたので何とか続けられましたが、秋にも解体という話しも出ていますので、ノートの設置場所もなかなか、雨、雪を防ぐ適当な設置場所が無く、PART2の代わりのノートを置いていますが、解体工事でどうなることか解りませんので、このノートがたぶん最後の思い出ノートになるでしょう。
1年半いろいろな方に思い出を書いてもらいました。まさか、こんなに書いてくれるとは思いませんでした。

「復活編」を書けたら良いのですがね。


平成11年9月5日 
原付きデブマン
先月29日にKMさんに逢いました。1年前より、いつ逢えるかと思いましたがやっと逢えました。春からのノートを交換しました。校舎が解体される日はいつなのか解らないので、このノートはどうなる事やら。


平成11年9月9日 
昭和40年卒 鱒川裕幸 東京より
毎年、大夕張へビデオを撮りに来ています。今年はダム工事が入り、いよいよだなぁと、寂しさが募ります。また来年、来れたら来ます。古里へ。


99年9月9日「9並び」 
札幌市 無限の住人 沙村広明
初めて寄りました。近くの元住宅街を見ると、?時は何人の人が住んでいたのでしょうか。この学校は体育館とおぼしき姿が見えたので、来てみると廃校だったのですね。今は虫の音しか聞こえてきません。と、まぁ、下手な文章ですが、立ち寄ったついでに。


平成11年9月18日 
和 子
大夕張、この言葉ももう書くことがないと思うと淋しいです。
たくさんの思い出をありがとう。


平成11年9月19日
成松、マーボ、次男、長谷川、みな子
鹿中26期5名で来たょ、成松、マーボ、次男、長谷川、みな子。
東高も登ったし、神社も登ったし、長谷川くんがいないぞー。
いたいた、草むらの中で長ーいー???。


平成11年10月3日 
美奈 AM10:26
飯田さんのHPのイタヤカエデの木の下で焼き肉をしように参加しに来ました。残念ながらの雨降りで、たぶん焼き肉は中止でしょうね?
AM10時集合なのに、まだ誰も来ません。鹿小の姿を見るのも、きっとこれが最後かな。


平成11年10月3日
小幡、成松、次男、長谷川。
美奈ちゃーん、俺も来たゾー。
今年は、これで4回目。来年は、この校舎もないんだネ。


平成11年10月3日 
内川准一 24・5・8生まれ
鹿島小学校校歌、 太古の森を切り開き。
森を開いて作った街から人が消えて、再び太古の森へ帰す。
強者どもが夢の跡。いよいよ近づいたな、心の大夕張。
心の中だけの大夕張。


平成11年10月6日 
PM4 46 小林秀範 札幌
焼き肉に来れなくて、今日来ちゃいました。
夕方の大夕張も十分寂しい。また、明日も来ることにしよう。


平成11年10月10日 
不 詳 
札幌より紅葉を見に立ち寄りました。
ダムのため、廃校になったのでしょうか。もったいないですね。


平成11年10月11日 
札幌市手稲宮丘小学校 6年2組 YUKAでした
私はここの学校を見て、緑に囲まれている学校なので、いいなーぁと思いながら歩いていると、昔のラケット(木製)がありました。体育館もけっこう広く、今の学校とほとんどかわんなかったです。


平成11年10月16日 
夕張市 酒井哲夫
素晴らしいアイディアのノート、ここに来たときに何時も見せていただいています。家に少し大夕張の資料もありますので、一度、良かったら見に来ませんか。幸福の黄色いハンカチ、一昨年11月23日に神社に登ったときに付けてきて、もう風に飛ばされたと思ってました。この箱の中にあって本当にびっくりするとともに、本当に嬉しくなりました。勝手なことで申し訳ありませんがいただいて行きますが、もし必要でしたらお返しします。
一度お会いできる日を楽しみに、ご連絡お待ちしています。


平成11年10月19日 
KM
久し振りに来ました。今月末に取り壊しいうふうに聞いたので慌てて来ましたが、まだ、ありました。原付きデブマンさんに逢いたかったのですが、また来ます。


平成11年10月24日 
KM
2週連続で来ました。今日は中に入れて見ましたが、ガラスは割れているしイタズラがひどいです。奇麗なままに残して欲しかったのに。


10月25日 
原付きデブマン
10月17日の北海道新聞の大夕張の記事の中に、今月末に解体ということが書いてあったので平日、急いで来ました。昨日来たかったのですが、天候不良と横浜から友人が来てたのでこれず、できればせめて解体中、最後の写真をと思いましたが、まだ残ってました。解体作業の機械などの準備もまだの様子、来週かも知れません。原付きで平日はなかなか来れません、3時からバイトもあるし雨や雪だとなお来れません。今年も残り少ないし雪の降る前に何回も来れないね。ついでに10月10日に神社に新しい旗の様子を見に行ったら、ロープは外され旗は濡れてビショビショ。ロープを張り直しましたが、旗もロープも濡れているため乾いた時のようにピーンと張ることができず、ダラーンとなってしまい、雪の降る前に小道具を持って直したいと思ってますが、どうなる事やら。誰かがイヤガラセにロープを外した感じです。

ノートは10月25日で引き揚げました。たぶん、校舎は雪の降る前に解体されるでしょう。
代わりのノートをと考えましたが、解体工事が始まるとノートの置き場所がちょっと難しくなり雨風対策を考えないと難しいし、来年春また考えたいと思います。


あとがき
平成8年10月末、旧神社に黄色い旗取り付け。
平成9年4月末、鹿島小学校玄関に思い出ノートを置く。
はじめの黄色い旗は、すっかり少なくなった。大夕張の住人、他の土地へ。
引っ越しを見ると、見送る人は殆どいませんでした。寂しい引っ越し風景でした。せめて、無言でしたが、黄色い旗がせめてもの、見送る人の代わりといっては失礼なのですが、そんな気持ちからでした。今は懐かしく訪れる人の出迎えの旗のつもりでした。
ノートも懐かしく訪れる人の何か一言があればと思い、プラスチックの箱に入れておきました。当初はシューパロ湖畔の展望台にも別に一冊置きましたが、2週間で無くなりました。
ノート、旗に興味を示してくれた人も多かったように思いましたが、一年を過ぎた頃からイタズラが目に付くようになり、校庭の記念碑も無惨に角がカケてしまい、ノート、旗、記念碑、校舎のガラスはすっかりイタズラの対象になってしまったようです。節度のある人も多いのですが、一部の者が、イタズラが、ちょっと気分よろしくない感じですね。4、5人の男性で荒らしてるようです。

とりあえず、ノートは10月25日で完結したいと思います。また、神社の旗はイタズラのない限り、今の旗は付けていますが、イタズラ、自然で破損した場合で、次からはイタズラ次第ですね。今年はイタズラが多すぎました。

このノートもできれば興味のある人に読んで欲しいのですが、なにせ5部しか作ってませんので多くの人は読めません。残念ながら永久保存で、もし読みたいという人がいれば読んで欲しいですが、汚す人はチョット困るけど。

昨年の4月からノートにいろいろ書いてくれた人達には、大変ありがたく思います。遠方から来た人も、数多く訪ねて来ました。
貴重なノートになったと思います。

来年以降、また様子を見て再開できれば良いと思っていますが???

平成11年10月25日、ノート最終日。

神社の旗、ノート、考案設置者、自称 原付きデブマン
               本名 泊川 俊徳

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